この街道は、城下町高山から西方向に伸びる。清見町で坂本トンネルを通過するせせらぎ街道に別れると、郡上街道になる。
そちらへ行かずに荘川方面に向かう街道も郡上街道と呼び、白川郷へも通ずることから、郡上白川街道とされてきた。途中、清見町、荘川町の景色が良いところを通過する。荘川に至ると牧戸で白川村方面と郡上方面に分かれる。
郡上白川街道は、白鳥で越前方面とつながり、美濃や越前との物資交流が盛んであった。木地椀やエゴマなどの特産が美濃方面へ運ばれ、越前方面からは羽二重などが持ち込まれた。
白川郷は江戸時代、二地域に分れていて、上白川郷が現在の高山市荘川町、下白川郷が現在の白川村である。荘川町には「入母屋造の茅葺建物」が分布していた。
一方、「合掌造」の建物が分布するのは、下白川郷・白川村と富山県の五箇山周辺である。荘川町の入母屋造と白川村、五箇山周辺の合掌造とは屋根の構造が違う。
養蚕のスペースを確保するため、「合掌造」の屋根裏を広げる方法については、様々な建築手法があみ出されてきた。元々、合掌造には小規模で簡素な「(ア)上屋(じょうや)造」と「(イ)下屋(げや)造」があり(『白川郷合掌造Q&A』)、格式が上で規模が大きくなる下屋造を建てることは容易ではなかった。そこで白川村に登場したのが「(ウ)新上屋造」である。その違いは、下屋造が平入り面に下屋を設けていること、チョウナ梁を多用していることで、上屋造はテッポウ梁という、曲がりが少ない梁を使い、下屋がない。
飛騨の里にある西岡家は(イ)下屋造、若山家は(ウ)新上屋造である。チョウナ梁、テッポウ梁、下屋があるかないかなどに注目して、飛騨の里にある合掌造、白川村や五箇山の合掌造を比較してみると建物内部空間のすばらしさを堪能できる。