1-1-(6)-11 岡田家
岡田家の先祖は、清和天皇-貞純親王-源清光-遠光-光行(南部三郎)の子孫「南部屋荘兵衛」といい、金山師であったという。仏心の篤い人で、加賀(石川県金沢)から川上郷(旧清見村)に入国し、一帯で金や鉱石を採掘していた。それから数十年後、白川郷六厩の大野平字大ナシに家を建て、金山師をしながら畑を耕し、以前から暮していた村人の手助けとなって、大野平の長者様と呼ばれるようになった。
山先(鉱山の発見)の利き腕は六厩金山の発掘を大きく伸ばした。その頃白川郷、川上郷は、郡上白鳥の天台宗長滝寺の寺領であった。南部屋荘兵衛も馬瀬郷松谷(小原・大原)に建立の末寺や、白川郷六厩島田に建立の末寺を大切に保持していた。
やがて白川郷へ嘉念坊善俊上人』が入ると、この人徳教化に帰依し、寛正年間「長滝寺」から離れて、浄土真宗の信徒になる。文亀二年(一五〇二)明西は実如上人から「方便法身尊像」を下付され、島田(現在岡田家の裏山手地)に道場を建てて、了宗寺の開基となる。
五世「正雲」の代に、燈明の火の不始末で道場を焼失する。そのため急遽、大野平の住家を島田(現在の岡田家)に移築して、須弥壇を設け仏を安置し道場とする。その頃から地名六馬屋が六厩となる。
正徳三年(一七一三)六世「明正」は、池野(現在の栂野家)に柿葺きのお寺を建て、木仏本尊を拝受し寺号「了宗寺」を下付される。七世「正西」の代に俗名岡田荘三郎と記した史料がみられる。坊守は妙恵とある。
延享元年(一七四四)八世「拾恵」の代に、豪勢な柿葺きのお寺は不審者の火の不始末により、わずか三十二年で焼失した。そのため、再び岡田家を寺として須弥壇を置き、法燈を絶やさなかった。この頃から金山の取り締まりが厳しくなり、寺の再建は遠のく。
九世「宗閑」の坊守は照蓮寺二十二世「義詮」の娘で十世「善了」、十一世「了圓」の二子があった。
寛政十年(一七九八)十世「善了」(庄平)が、江戸の徳川十一代将軍「家斉」に鷹を献上しお褒めの言葉をいただく。
文政元年(一八一八)十一世「了圓」(荘三郎)が四一才の時、現在地柴野に了宗寺を再建し、同時に庫裏も建てる。坊守は中野照蓮寺「心行坊」二三世「義観」の娘で「ふさ」、そして「祐顕」、「志由無(しゆん)」、「とわ」の三子があった。長男は十二世「祐顕」となり、長女「志由無」は、六厩村三右衛門より婿養子をむかえる。二女「とわ」は下滝の若山家に嫁いだ。
文化九年(一八一二)在家用の仏壇を三十両で、郡上の鷲見次右衛門仏壇店から求める。(現在岡田家の仏壇)
それ以来、年代が目まぐるしく変り明治維新となって、十四世「祐圓」の代に岡田家を離れ、「栂野」姓を名乗り「栂野祐圓」となる。明治八年(一八七五)二月八日、荘川村が誕生し、栂野祐圓は初代戸長に任命される。昭和六一年(一九八六)十七世「栂野明昭」の念願であった本堂建立を、信徒の篤い仏心と檀家総代「岡田満次郎」の尽力によって、「小鳥白川六厩のお寺柿葺きとは知らなんだ」と歌に脉まれている了宗寺を新築再建した。
1-1-(6)-12 岡田家内部