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[一色の三島家(荘川町新渕「荘川の里」に移築)]

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1-1-(6)-16 三島家

 三島家の祖は、家系図や『岷江記』によると、白川郷に真宗を伝えて照蓮寺を開基し、飛騨一円にその教えを広めた嘉念坊善俊の八代の子孫明誓の長男教信とされている。教信は照蓮寺を継ぐべき立場にあったが、それを弟明教に譲り、自らは還俗して武家となり三島将監教信と号したという。その次子の正顕は白川郷の領主内ヶ島家に仕えたが、その孫正厳の代に内ヶ島家を辞し、天正のころ現在の一色の地に帰農した。一色三島家の祖とされる。
 その後、代々庄屋、名主、村長等を務めてきた。その中でも、現在遺る建物を建てた十一代三島勘左衛門正英は孝子として特に名高く、高山にあった実父の上木甚兵衛が、有名な大原騒動に関わり伊豆の新島に流されたのち、島で病を得たことを知った正英は、幕府に願い出て島に渡り、八年にわたる看病の末、その最後を看取って帰郷した。また和歌や絵にも長じており、多くの著作を遺している。
 正英が八歳の時養父、養母が死亡、十三歳のとき建物普請をしたのだが、実父上木甚兵衛の全面的な指図によっている。主屋の構造については、床の間の床板に描かれた墨書に宝暦十三年(一七六三)高山の大工棟梁今井忠次郎によって建てられたことが記されてあり、一方、三島家伝蔵の「白川年代記」には、宝暦十二年の頃に「甚助家建ル、大工棟梁今井忠次郎」とあって墨書と合致している。この甚助は三島家十一代勘左衛門正英で当時十三才、もともと三島家から出た高山の町人上木甚兵衛の次男であり、養子として三島家を継いだ人である。

1-1-(6)-17 上木甚兵衛墓
(平成25年7月荘川小学校墓参)


1-1-(6)-18 深山呼子鳥