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[「向牧戸城の戦い」(荘川町牧戸)]

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1-1-(6)-22 向牧戸城

 長近軍は、石徹白彦右衛門尉長澄を先導に飛騨の浪人江馬・牛丸・鍋山・河尻氏等を従えて、白山別山をこえ白川郷尾上可重軍は、郡上長瀧(ながたき)から本道を通って白川郷野々俣(ののまた)村へ侵入している。さらに長近軍は、尾上から、同郷の海上(かいしょう)、中野、岩瀬の村々を隊を組んで進み、向牧戸城(むかいまきどじょう)へと向かった。可重軍は、野々俣村から町屋(まちや)村を経て向牧戸城へ迫ったのである。
 八月六日、挟みうちのかたちで、向牧戸城を攻めたが、三木自綱は、金森長近の白川郷侵入をあらかじめ察知して防備を固めていたため、なかなか攻略することができなかった。
 とりわけ、内嶋(うちがしま)氏の武将尾神備前守氏綱(おかみびぜんのかみうじつな)の反撃は激しく、金森軍は苦戦したという。

1-1-(6)-23 尾上郷上流


1-1-(6)-24 金森軍侵攻ルート図

 攻略が困難とみた金森軍は、態勢を整える意味もあって、一度退却し、可重の妻の父である郡上の遠藤慶隆(よしたか)軍の応援を受け、金森軍に合流させ、再度、向牧戸城へ迫り攻撃した。
 それでも、金森軍の犠牲が大きいので、長近は、夜に入ると間者(かんじゃ)を使って城に火を放ち、城中の混乱に乗じて、一気に攻めたて、城中の男女数百人を皆殺しにした。向牧戸城はついに落ちた。
 飛騨入り初勝利は八月十日、越前大野を発って九日目であったといわれている。
 なお、長近軍が白川郷へ入り、照蓮寺前を通って向牧戸城に向かっても、門徒による抵抗がなかったのは、石徹白彦右衛門を使って、照蓮寺とも事前に話し合いができていたからだといわれる。