古代の官道では、三十里(この時代は約十六キロメートル)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅には馬十疋(ひき)が置かれた。
東山道は奈良から東北へと通ずる道路で政府の役人などが通るために整備されている。東山道は東へ進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。わざわざ飛騨に通ずる官道を支路として設けたのは、飛騨の国が政治的にも戦略的にも重要であったからに他ならない。ちなみに「飛騨匠」制度は毎年百人の匠等を都の造営に徴用したもので、匠らは飛騨支路を都へと通っていた。元々、飛騨支路は官道であって、小路として駅家に馬五疋を設置していたが、公文書の送付通信、朝集使(政府の役人)などの重要な公使の旅行のための道路であった。
飛騨の匠が飛騨から奈良まで行くのに、この官道「飛騨支路」を通ったとして、上京十四日、下向七日といわれる。上京が十四日になるのは、徴用された匠の食糧は自己で運ばなければならず、所持荷物が多かったからと考えられている。
飛騨支路は京都に都が移った平安時代も存続し、延喜式記載の駅は「方県(かたがた)」から分かれて(ア)武儀駅(イ)加茂駅(ウ)下留駅(エ)上留駅(オ)石浦駅の五駅が文献上見られるが、現在のどこにあたるかは研究途上である。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え育んだ道でもあった。
1-1-(7)-1 奈良時代、国の役人が持っていた駅鈴