まず、はじめにその規定を掲げる。
凡そ斐陀国(ひだのくに)は、庸調倶(ようちょうとも)に免ぜよ、里毎に匠丁(たくみのよぼろ)十人を点(てん)せよ〈四丁毎に廝丁(しちょう)一人を給え〉、一年にひとたび替えよ、余丁(よちょう)は米を輸し、匠丁の食に充てよ〈正丁に六斗、次丁に三斗、中男(ちゅうなん)に一斗五升〉(〈 〉はもと割注)
ここからわかることを列挙すると、
a 律令制下の飛騨国は、租庸調などの税のうち、庸・調が全て免除されていた。
b その代わりに、里(郷)ごとに「匠丁」を十人差し出す。
c そして、その匠丁四人ごとに、食事などの世話をする者一人を充てる。
d その任期は一年とする。
e 匠丁とされた者以外の課丁(課役を負う男性)は匠丁らの米を負担する。
f その負担は正丁(二十一歳から六十歳)、次丁(六十一歳から六十五歳)中男(十七歳から二十歳)それぞれに数量を定める。
といった内容である。
まず何よりも注目されるのは、律令制では中央政府に納めるべき税とされる庸調のいずれもが飛騨では免除されており、その代わりに「匠丁」が差し出されることである。この匠丁がいわゆる飛騨工である。従って、飛騨の匠丁はあくまでも中央政府によって掌握される労役であった。飛騨の場合のように特例処置が律令に明記されることはなく、もちろん庸調の負担が他国でも免除されていたわけではない。
とすれば、当時の中央政府は、農業生産がさほど期待できない地域ではあっても、通常の庸調とは異なる税を課すという方針を採用していたわけではないということになる。つまり飛騨国の場合、中央政府は、庸調という公民税制の原則を除外してでも、匠丁の徴発を規定しようとしたと、考えざるを得ないのである。
木工寮の職掌は、本来、樹木の伐採・製材から、それらを用いた土木建築に至るまでであるが、実際にはそれにとどまらず、神祇祭祀(じんぎさいし)の際の祭具をはじめ、宮廷の机・椅子等、家具の類にいたるまで、じつにさまざまな物品の製作をも担当していた。この木工寮に、飛騨工三十七人が配属されており、工部五十人とともに、実務を担う者として中心的位置を占めていたのである。
1-1-(7)-2 飛騨匠物語(飛騨匠と百済川成の腕くらべ)
官司の一般的な労役に当たる仕丁(しちょう)とは別に、飛騨工が置かれていることからもわかるように、彼らに課せられたのは、単純労働というよりも木工を主とする、より専門的な職掌であったと思われる。それも宮廷に深く結びつき、内裏の造営から、調度・祭具の製作に至るまで、日常的に幅広い業務に携わっていたと見られる。
1-1-(7)-3 朱雀門 飛騨センター