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[国分尼寺(岡本町二町目)]

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 国分尼寺は全国的にも例のない正面一間分か吹き放しで、現存する興福寺東金堂や唐招提寺金堂と同様式である。唐招提寺金堂(部材に七八一年の伐採材が使われており築造はそれ以降)よりも早い創建と思われ、天平勝宝九年(七五七)頃には完成していたと考えられている。奈良と飛騨にしか存在しないデザインの「吹き放し」構造から、都と飛騨の活発な交流が裏付けられる。
 飛騨国分尼寺の位置については、辻ヶ森三社一帯、高山盆地の北に広がる国府盆地内の寺跡(塔ノ腰廃寺)など諸説があった。大正年間、押上森蔵が当社弊殿下に礎石を発見し、国分尼寺と推定している。
 昭和六十三年五月、辻ヶ森三社の社殿改築を機に、高山市教育委員会が発掘調査を行ない、国分尼寺金堂跡を発見した。国分尼寺金堂の規模は、基壇の大きさが正面幅百十尺(三二・七八メートル)奥行六六尺(一九・六七メートル)で、基壇上には桁行七間、梁間四間の礎石建物址が確認されている。
 国分僧寺の創建時の金堂跡の規模は、正面桁行七間、梁間四間の建物で、梁間寸法計が尼寺と二尺の差をもつが、桁行寸法計は八十八尺と同じ大きさであることが注目された。
 構造で注目すべきは床面敷石で、南側正面一間分か吹きはなしで、奈良・唐招提寺金堂と同じ様式である。そのほか、金堂身舎中央に鎮壇具埋納土壙の存在を確認、遺物は各トレンチから鬼瓦片などが出土。
 また、基壇の版築高さ百二十センチメートルで、たたきしめられ、非常に硬く安定していた。その上に設けられていた礎石は安定水平を保っており、礎石間の高低は二~三センチメートルであったことには驚かされた。凍結の厳しい高山でもいかに版築基壇が堅牢であるか知ることができた。

1-1-(7)-7 国分尼寺 礎石

 国分尼寺は全国的にみて、その位置や構造など詳しいことがわかっておらず、飛騨国分尼寺のように建物構造まで明らかになったのは、希有の例である。
 飛騨国における国分寺、国分尼寺の特定により、奈良時代における飛騨の様相を知る上で最も重要な成果が得られた。
 また、高山盆地には条里型地割があることが実証されており、その地割の中で、国分寺の寺域は二町四方、国分尼寺の寺域は一町四方であることが推察されている。
 奈良時代における、聖武天皇、持統天皇の悲願であった、諸国に国分寺、尼寺の建立の足跡を示すものである。
(『国分尼寺跡発掘調査報告書』より)