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[浅水橋故跡碑代榜碑(下呂市萩原町尾崎)]

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 この橋の所在について、古来飛騨説と越前説の両説があって、本居大平などは越前説に固執したが、田中大秀は、アサミヅ(浅水)が音便でアサンヅとなったもので、八雲御抄や初学抄にも飛騨と明記してあるとした。
 上呂駅から対岸の尾崎へ渡る橋が浅水橋であった。越前のは、アサフヅ(麻生津)がアサウヅとなったもので、一条兼良の臆断(梁塵愚案抄)にはじまる謬説であると主張して譲らなかった。
 中世末に位山道が廃道となり、橋も朽ち果てて渡し船で往来していたが、明治二十六年になって釣橋が架けられた。
 昭和五十七年、釣り橋の尾崎側北詰に建てられた碑には、榜碑の文面がそのまま刻まれている。

1-1-(7)-19 あさんずの碑


1-1-(7)-20 あさんずのつり橋