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[尾張街道の概要]

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 尾張街道は、その名の通り尾張方面へ行く道で、金森時代になって整備されたが、時代によって、また、古絵図、地図によって街道名が違っている。高山が所属する郡は大野郡であったが、南隣の郡は益田郡といったので益田街道とも呼称する。また、川に並行して進む道を筋といい、益田筋ともいった。
 この道は高山から名古屋へ通じ、宿駅は十一、里程は三十八里である。急げば四日、普通五日である。名古屋からは、東海道に乗り、名古屋から京都まで三十八里の道程となる。また、名古屋から東海道を宮(熱田神宮)に出て桑名に舟で渡り、桑名から南へ下がると伊勢へと通ずる。飛騨の人たちは、この道を通って伊勢参りにと通ったのである。
 この街道の重要な役割は、運材の管理に関わる道路である。四百年前に金森氏が飛騨の国主になってから、飛騨の山林資源を世に出し、米の石高は三万八千石が表高であったが、実際は山林資源や鉱山資源を含めると十万石を楽に越えたという。秀吉の伏見城下整備、大坂城下整備、家康の江戸城下整備など、高級柱材の需要に合わせて木曽や飛騨の良材が川流しで運ばれた。飛騨川を流すにあたり、木材は各所で滞留した。それを流すため、また、谷から材を出して本川の集積地点・土場への連絡等、金森氏が飛騨川両岸に街道を整備したことには必然性がある。金森氏転封後、幕府直轄地時代になってもその街道は継続した。
 尾張街道は、何と言っても飛騨の良材を名古屋まで川流しするための管理道路であった。その街道の難所を改修する為には、運材により利益を得る飛騨の豪商が関わっている。
 金森氏が飛騨の国主になったとき、運材を請け負った最初の商人は、一番町(上一、下一之町)の町年寄矢嶋氏(飛騨高山まちの博物館の場所)であった。しかし、材木稼ぎにある時期、つまずき、塩商いに転換している。その後、材木商いは田中半次郎、武川久兵衛(下呂)が請け負うことになる。

1-1-(8)-1 門坂図

 1-1-(8)-1門坂図は、田中半次郎が出資して改修した小坂町門坂の改修計画絵図である。川辺近くにあった道路を、上部に切り替えた事が詳細に描かれている。運材の為の道路改修費を田中半次郎が出資したのは、運材のための管理道路を確保するためであり、その必然性が理解できる。
 大正時代になると飛騨川に水力発電計画が進み、大正九年から運材業者との紛争があった。ダムに木材を流す木道を作ること、運材がダムの施設を破損しても損害賠償を求めないこと、などを条件とした覚書を結んで大正十三年にようやく和解した。これを「益田川事件」という。しかし、昭和九年、高山線開通により機関車貨物輸送が始まると、飛騨川の運材は終焉を迎えることになる。四百年近く続いた飛騨川の運材はあっという間に終わり、そのようなことがあったのかと知る人も少なくなってしまった。
 今、尾張街道筋には高山線と国道41号が尾張街道筋を継承し、風光明媚な観光道路、冬季の安全道路として利用がなされている。近年、41号は防災上からトンネル化が進み、ショートカットが多くなったが、それでも金山までの点在する在所(集落)前後には旧街道が現存し、飛騨川は静かに青い水を緩やかに流している。

1-1-(8)-2 尾張街道概念図