河内路は引下(ひきさげ)、木賊洞(とくさぼら)、長淀、渚間の約六キロメートルをいう。左岸では大坊山(一三四六メートル)、桧ヶ尾(一〇八四メートル)が、右岸では大沢山(一一一二メートル)の岩壁が迫っていて、交通の難所であった。金森氏が飛騨侵攻の際、益田川を北上するなかで、阿多粕(あたがす)ルートから鍋山城に向かったとされる。国主となった金森長近は、難所であった河内路を大工事により開いた。河内路は幕府直轄地時代になっても大改修が続いてゆく。
文化五年(一八〇八)、第十六代の田口五郎左衛門郡代の時に、木賊洞の最難箇所約千メートルの大改修工事が行なわれた。高山の二木俊恭、田中英積、田中景逸、下原村の加藤道和等が発起施工者となり、郡代、豪商らが経費を工面した。
「木賊洞難路改修碑」を文化五年に二木俊恭が建てて現存する。
※参考文献『久々野町古道より』反中一男 昭和六十一年発行
1-1-(8)-5 木賊洞周辺