見るもうし植うるも苦し東田のめぐりめぐりて早苗取るかな
『飛州志』はいう、田の広さ方九間ばかり、稲苗一把を中央に置き、それより円く廻りて菅笠(すげがさ)の縫目のように植える。里民は伊勢神宮の神供米を作ったというが、今は地元の神社にモチを作ってそなえる。
文政八年(一八二五)秋、日下部道堅が建碑を思い立ち、田中大秀に碑文の執筆を依頼した。右碑文は車田を「神鳳鈔」にいう飛騨国穴野御厠(みくりや)であるとし、故老の言を引用して、昔は環形の内に、一年にかたどり十二枚の小田が車輪のようにならんでいたので車田と名づけたと述べている。
現在の植え方は、田の中心に杭を打ち、中心から七本の線を出す。一株の苗を三本ずつとし、一本の線に五株植え、あとはその外側に同心円状に植える。下肥は決して使わない。
古い車出形式の植え方をなお保存しているのは、ここと佐渡だけである。
1-1-(9)-8 車田