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〈金の鶏が生まれる城〉

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1-1-(9)-11 尾崎城

 尾崎城は、またの名を「金鶏城」という。黄金の鶏が地下に埋まっている、埋蔵金が埋まっているという言い伝えが地元にあり、何時か掘り当てようという人たちがずっと狙っていた城跡である。この金鶏伝説は全国各地にある。山中や長者屋敷、塚の中に金の鶏が埋められていて、中から鶏の鳴き声が聞こえてくるというものが多い。また、欲深爺さんに殺された鶏を、正直爺さんが悲しんで埋めて塚を作ったら、次の朝に金の鶏になって生きかえったという話の掛け軸もある。金が儲かる、長者になるという縁起の良い金鶏としてその軸は床の間に飾られる。
 明治三十九年、尾崎城二ノ丸から備蓄銭が大量に発掘された。宋銭などおびただしい量が出土し、村の人たちで分配したという。その一部は丹生川村の文化財に指定(現在、高山市指定)された。
 ところで、尾崎城には誰が在城していたのか。天文年間(一五三二)、宮川筋の北飛騨と越中方面に支配権を持っていた「塩屋秋貞」がいた。秋貞は古川城(古川町)、塩屋城(飛騨市宮川町)、猿倉城(富山県大沢野)などを拠点にしていたが、永禄七年(一五六四)、信州武田側の武将「飯富昌景」らの飛騨攻めにあい、富山に退いている。天文十三年(一五四四)の飛騨兵乱には三木側についていた。天正十一年(一五八三)大沢野で討死している。
 平成六~十年にかけて、丹生川村により城跡の発掘調査がなされ、平坦部の遺構が明らかになった。また石臼、砥石、石製品、陶器が出土し、陶磁器は十五世紀代に製造されたものが中心で、青磁や白磁の高級品が見られる。出土遺物の時期から考えて、塩屋氏の時代より古くから、この尾崎城の場所が館などに使用されていたと考えられている。六百年も前から尾崎城を中心に政治経済が町方地区で発展してきたのは、飛騨の国の中での大きな地形的利得があったからに違いない。
 丹生川地域内には荒城川筋、小八賀川筋の平地があって水の流れと共に古い街道は北進する。下流で宮川、神通川に合流し、富山へと街道はさらに北進する。秋貞はこのルート沿いに覇権を駆使したのであろう。上流部にあって、まとまった平地があるのがこの町方、坊方地区で、少し小高い尾崎城跡の丘は防御上最適の場所であった。
 今、城跡は城址公園に整備され、往時の歴史を物語っている。