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〈「伊太祁曽」とは〉

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1-1-(9)-17 伊太祁曽神社

 丹生川小学校の校歌の一番は「昔の書(ふみ)に飛騨人の真木流すちょう丹生川と調も高く歌われし水流れ出づ乗鞍ゆ」である。「昔の書」とは万葉集巻七・一一七三番のことで、「斐太人之 真木流云 尓布乃河 事者雖通 船會不通 飛騨人の 真木流すといふ 丹生の川 言は通へど 舟ぞ通はぬ」という歌がある。その詠われた場所は丹生川の小野にある「琴淵」に比定されている。校歌の中の「乗鞍ゆ」は「乗鞍から」の意で、丹生川地域が乗鞍の水の恩恵を受けていることを強く意識して富田豊彦が作詞したのである。
 乗鞍岳は飛騨を代表する山である。標高三〇二六メートルで、いわゆる「アルプス一万尺」の歌に出てくる標高を持つ。乗鞍は古くから霊山として信仰が厚く、神体山としてあがめられ、別名を「位山」、乗鞍の古名である「愛宝(あわ)山」、「祈座(のりくら)」とも呼ばれた。
 大同二年(八〇七)に坂上田村麻呂将軍が登山して祈願したのに始まり、中世には社堂が繁栄、江戸時代には「鉱山鎮守」の氏神として尊崇され、登頂する人が多かった。円空や木喰行者も登山しているという。乗鞍の頂上である剣ヶ峰が本宮とされ、周囲の峰の頂上には諸々の祭神が祀られている。今は主として自然と観光の山として捉えられていて、神体山としての乗鞍、水流れ出づ乗鞍ゆの崇拝が薄くなっているのは寂しいことだ。
 乗鞍頂上に「乗鞍本宮」の社殿が大きく整備されたのは昭和二十七年、畳平の国有地に二十六坪「乗鞍本宮中宮祠」が設立された。一方、山麓の岩井谷字山越には「乗鞍神社」があり、昭和三年までは伊太祁曽神社という名称であった。
 「伊太祁曽」は乗鞍の別称で、丹生川地域に伊太祁曽神社は、日面、瓜田、根方、小野、日影、板殿、旗鉾、池之俣の八社がある。乗鞍本宮の里宮とされ、乗鞍岳を神体山と仰ぐ。いずれの神社も祭神は、林業の神である五十猛(いそたける)で、山林業振興が託される。乗鞍岳、小八賀川は地域住民の文化と記憶の基底を構成し続けている。
 本社は元、乗鞍の恵比寿岳に鎮座されていたが、元中七年(一三九〇)に久手に遷し、さらに明徳年間(一三九〇~一三九四)に旗鉾字東森に遷座、寛永年間(一六二四~一六四四)になって現在地に奉遷したという。
 現在の建物(市指定文化財)は文化十年(一八一三)に建てられた。流れ造りで斗栱の彫刻も優れている。
 (棟札)
  棟領 山内定頭
  木挽 桐山茂助、塩屋彦兵
  文化十癸酉十一月吉日
      氏子中 名主 籐三郎
      山内弥左衛門
 この神社でよく知られている「くだがい神事」は高山市の無形文化財に指定されている。正月十四日に執り行なわれ、六百年前頃から続いている伝統行事である。
 神事は、占い事を書き記したサワラの札(木札)と麻がらを麻皮でしぼり、米、小豆、大豆と一緒に粥として釡で炊き上げ、麻の管に入ったそれらの穀物の量により、その年の吉凶を占うものである。その結果は「くだがい帳」に記される。
 (伝承)
 文化七年(一八一〇)頃から旗鉾伊太祁曽神社へ、お伊勢さまがおいでになったという「うわさ」が広がり、参詣者はだんだん増え、多い時は一日二千人にも及んだ。考えられないような事が三年余りも続き、村をあげて盛り上がったという。