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第三節 越中街道

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越中街道ルート図(別図有)国土地理院長承認 平26部複、第72号
2-3-1 越中街道ルート図(別図有)国土地理院長承認 平26部複、第72号


(1)高山~上広瀬
 富山方面への赤線部分(越中東、中、西街道)を中心に説明をする。
 城下町高山での越中街道は、富山方面から魚などを搬入する道として、大新町を南下し、二之町の川上魚問屋(現上二之町)に到着するルートがある。また、御役所(高山陣屋)から北方向に、現在の本町、七日町を北上する道も越中へ向かう道として知られる。
 城下町を過ぎて、街道は桐生、松本、下切三川、上広瀬の追分へと進む。赤線の部分はおおむね、旧街道のルートである。
 
(2)上広瀬~山田、船津町
 上広瀬の追分を過ぎて「今村峠」を越え、「今(いま)」集落、「八日町(ようかまち)」の宿場に至る。八日町から十三墓(じゅうさんぼ)峠、大坂峠を越えて巣山、山田、朝浦(船津町)に至る。十三墓峠は、八日町周辺で県道に赤線を付しているが、旧街道は西門前側のルートである。
 途中、山田で神原峠からの道と合流する。神原峠のルートは、地図上、「越中街道」と記される。また、西で数河からの道とも合流する。数河からの道は、現在国道41号の道筋である。

2-3-2 八日町宿場

(3)朝浦~谷村
 朝浦から高原川の左岸を北に進む道が「越中中(なか)街道」である。この地図では「越中街道」と記される。途中、厳しい割石の岩壁沿いの道があり西漆山~西茂住間もかなり厳しい道が続いている。
 西茂住の先は、谷(たに)・蟹(かに)寺の籠の渡し場に至る。中街道は、寺村から朝浦、また、地図にある県道、さらに梨ヶ根から山沿いに進む道が考えられ、旅人の都合によって、また、時代によって変遷をしている。赤線は、大正時代・江戸時代のルートを推定して付した。
 
(4)東町~東猪谷(東街道)
 朝浦から藤橋を渡り、東町に至って神岡鉱山の鹿間(しかま)、土(ど)東茂住(ひがしもずみ)、杉山、横山、東猪谷(ひがしいのたに)、富山の大沢野に至る。
 
(5)上広瀬追分~宮川~谷村~蟹寺(西街道)
 追分を過ぎて国府、古川盆地の平坦地を通り、野口大無雁(おおむかり)、落合林、三川原(さんがわら)打保、塩屋東加賀澤(ひがしかがそ)へと進み、蟹寺に至る。そこから西猪谷、笹津につながる。
 途中、西から清見の池本からと、河合の「保(ほ)」、河合の「天生(あもう)」から合流する道がある。また東方向に、広瀬から八日町へ、杉崎から山田へ、野口から数河、西への道がある。
 落合から宮川の右岸、左岸の道が設けられていて、災害等によって切り替えられて北に街道は進んでいた。元禄時代に加賀の前田藩が、高山城の管理のために通ったのは、この道であり道中絵巻物に表されている。

2-3-3 加賀藩道中絵巻

(6)金森長近の進軍ルート
 金森氏は、天正十三年(一五八五)八月十日に向牧戸城を攻略すると秋町から森茂村を経て森茂峠を越える。八月十三日には小鳥川沿いに北進し、保から東へ稲越の方から小鷹利城を攻め落とし、さらにその夜の内に小島城を攻め落としている。八月十四日には古川城を、八月十五日には高堂城を攻めて、三木自綱は京都へ敗走する。