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(2)飛騨国絵図(中川忠英旧蔵本) 三点(三郡分)

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年代正保年間(一六四四~一六四八)
吉城郡、大野郡、益田郡の原図三枚がある。
寸法公文書館の閲覧様式は四×五のポジで、三郡三枚の原図がそれぞれ四~六分割で撮影されている。本書では原図と同じく、3-1-(2)-1~3図の三枚とした。
3-1-(2)-1図大野郡はポジ四枚を一枚に接合 大野郡図はL字形である。原図寸法(北を上にして)約二八五×三〇三センチメートル
3-1-(2)-2図吉城郡はポジ四枚を一枚に接合 原図寸法(北を上にして)約一八八×二二九センチメートル
3-1-(2)-3図益田郡はポジ四枚を一枚に接合 原図寸法(北を上にして)約二三八×二四一センチメートル
所蔵国立公文書館(176‐286‐20~22)

3-1-(2)-1正保年間飛騨国絵図(大野郡)
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3-1-(2)-2正保年間飛騨国絵図(吉城郡)
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3-1-(2)-3正保年間飛騨国絵図(益田郡)
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 3-1-(2)-1~3図は正保年間(一六四四~)に作られた国絵図である。江戸幕府が全国の国主から国絵図を提出させたものの写しである。奥書に、「図書局文庫」「中川家蔵書印」の朱印がある。金森時代の国絵図であり、街道、在所、隣国への里程、山岳、東照宮、安国寺などが記入されている。
 この正保年間の飛騨国絵図は大野郡、吉城郡、益田郡の三区域に分割されている。3-1-(2)-2図吉城郡の端書に石高がある。3-1-(2)-3図益田郡の北端、朝日地域の辻~上ヶ見の部分が欠損している。
  大野郡 高壹萬弐千三百拾弐石弐計八合
  吉城郡 高壹萬七千弐百弐拾八石四舛壹合
  益田郡 高九千弐百弐拾四石三計(斗)三舛壹合
  都合  三萬八千七百六拾四石四計
○隣国への街道表記(三郡別、大野郡3-1-(2)-1図、吉城郡3-1-(2)-2図、益田郡3-1-(2)-3図)
 大野郡中 下白川郷(現白川村)から北への道
  「飛騨国境目一里山ヨリ越中之内 赤尾村迠拾四町拾間飛騨国西上峠ヨリ越中境目迠 拾六里難所十月ヨリ明ル四月迠 牛馬無通路」
 ※十月~四月は牛馬が通れない。
 大野郡中 野々俣村から郡上への道
  「飛騨国境目え一里山ヨリ信州(濃州の誤記か)郡上え一里山迠拾一町
  西上峠ヨリ境目迠五里余難所十月ヨリ明ル三月マテ 牛馬無通路」
 ※十月三月は牛馬が通れない。
 吉城郡中 越中東街道の横山村から北への道
  「飛騨国杉山一里山ヨリ越中境目迠廾(廿)五町七間同国八日町村ヨリ境目迠九里余難所 十月ヨリ明ル四月迠牛馬不通」
 ※十月~四月までは牛馬が通れない。
吉城郡中 越中西街道の小豆沢村から北への道
 「飛騨国小豆沢一里山ヨリ越中境目迠十八町同国落合村ヨリ越中境目迠六里九月ヨリ明ル 四月迠牛馬無通路難所」
 ※籠の渡しは茂住村、中山村、谷村の三カ所にある。
吉城郡中 角川から二ッ屋村を通る道
 「飛騨国角川村ヨリ越中境迠四里半難所 九月ヨリ五月迠牛馬無通路」
 ※九月~五月までは牛馬が通れない。
吉城郡中 平湯村から平湯峠(絵図では平湯峠と記してあるが、現在の安房峠)を通る道
 「飛騨国平湯之一里山ヨリ信州境目迠 廾(廿)三町廾(廿)間難所十月ヨリ明ル四月迠牛馬不通」
 ※十月~四月までは牛馬が通れない。
益田郡中 小日和田から信州への道
 「飛騨国長峰一里山ヨリ信州境目迠 拾四町七間霜降ヨリ明ル三月マテ牛馬通路ナシ」
 ※霜月~三月までは牛馬が通れない。
 ※野麦峠越えの道は記されていない。
益田郡中 下原町から美濃への道
 「飛騨国下原町一里ヨリ濃州金山村迠 卅(丗)町余境目舟渡川廣拾五間余中山七里之内難所」
益田郡中 御厩野から中津川への道
 「飛騨国御厩野村ヨリ濃州境目マテ廿五町」
3-1-(2)-4 正保年間、飛騨国絵図(大野郡)部分3-1-(2)-5 正保年間、飛騨国絵図(大野郡)部分
3-1-(2)-6 正保年間、飛騨国絵図(吉城郡)部分3-1-(2)-7 正保年間、飛騨国絵図(吉城郡)部分
3-1-(2)-8 正保年間、飛騨国絵図(益田郡)部分3-1-(2)-9 正保年間、飛騨国絵図(益田郡)部分