岐阜県歴史資料館・飛騨郡代高山陣屋文書1‐40‐103
一嘉永二年(酉)九月
高山三之町村地内筏橋掛替木積(つもり)帳
〔表紙〕
嘉永二酉年九月
大野郡高山三之町村地内字筏橋掛替木積帳
〔本文〕
字筏橋 大野郡
長さ拾八間 三之町村
一板橋掛替壱ヶ所 但
幅 六尺
此の入用木
石浦村地内若宮森
長さ六間
杉元木三本 但 行桁木
目通り五尺廻り
此の取立、丸太の侭(まま)相用ひ申し候
外、例通り、行桁木、在来の古木相用ひ申し候
根伐木(ねぎりぼく)三本 (記載なし)
外
宮村山内字日面山の内小字さかさま谷
字中橋ニ相用ひ申し候
長さ六尺より弐間
栗末木四拾六本 但
末口六寸より八寸
此の取立
角四拾六本
長さ弐間
内六本 但 鳥居柱木
六寸 角
長さ弐間
六本 但 橋台柱木
六寸 角
長さ六尺 鳥居
四本 但 冠木
六寸 角 橋台
長さ六尺
四本 但三寸 右同断横木
六寸 角
長さ弐間
六本 但 手摺柱木
四寸 角
長さ三尺
此の木弐拾四本 但
四寸 角
長さ九尺 桿木
□弐本 但 右同断
五寸 角 横木
長さ九尺
此の本弐拾四本 怛巾 五寸
厚さ弐寸五分
長さ六寸 男柱
八本 但 木
四寸 角 袖柱
敷板(しきいた)の義は字中橋古板譲り請け相用ひ候積(つも)り。
右は大野郡三之町村地内字筏橋掛替普請(かけかえふしん)
入用木取立て方仕様帳差上げ奉り候。以上
高山町組頭惣代
嘉永二酉年九月 土野屋 庄七 印
同断
山田屋 伊兵衛 印
同断
大野屋 彦兵衛 印
石浦村
百姓代 平右衛門 印
組 頭 七兵衛 印
名 主 安左衛門 印
宮 村
百姓代 彦次郎 印
組 頭 文三郎 印
名 主 七郎右衛門 印
高山
御役所
二 嘉永二年(酉)九月
大野郡三之町村筏橋掛替杉元木及び
同村中橋敷板栗末木取立て願
〔本文〕
恐れ乍ら書付を以って願ひ上げ奉り候
大野郡三之町村地内字筏橋大破ニ及び候ニ付き、別紙仕様帳の
通り掛替(かけか)え申し度(た)く、石浦村地内若宮森ニて杉元木、並びニ中
橋敷板(しきいた)ニ御願ひ申上げ候宮村山内字さかさま谷ニて栗末木仰せ
付けさせられ下し置かれ候ハゞ、村内自普請を以って掛替え仕
り度く、願上げ奉り候。何分御慈悲の上、右願ひの通り御聞き
済み成され下し置かれ候ハゞ、有難き仕合せニ存じ奉り候。
高山町組頭惣代
嘉永二酉年九月 上野屋 庄七 印
同断
山田屋 伊兵衛 印
同断
大野屋 彦兵衛 印
石浦村
百姓代 平右衛門 印
組 頭 七兵衛 印
名 主 安左衛門 印
宮 村
百姓代 彦次郎 印
組 頭 文三郎 印
名 主 七郎右衛門 印
高山
御役所
〔語句〕(二通分共通)
・元木(もとき)
伐出(きりだ)された材木の元の方。また、根元の太さのまま一定の長さを保っている材木。
筏橋で用いられた杉元木の長さは六間(約一〇メートル)、かなりの長木である。
松・栗では、これだけの長い材は取れなかったようである。
・根伐り木(ねきりぎ、ねきりぼく)
根元から伐り倒したまま、加工の手が加えられていない材木。
しかし、この譲り帳には「根伐木三本」と記録したあとに、木品・長さ・木幅・用途などの
重要な事柄が記載されていない。もちろん、その理由も不明である。
・末木(すえき)
元木に対する末木。しかし、栗の木で長さ六尺(約一・ハ二メートル)から二間(約三・六五メートル)の
材を確保することは容易ではない。従って、ここでは角材であるから、必ずしも元木でなくてもよいという
意味であろう。
・末口(すえくち)
材木の両端のうち細い方の切り口。長方形のものと正方形のものがある。
・積り(つもり)
計画、予定の意味。
(なお、橋の構造用語については、絵図を参照されたい)
〔解説〕
筏橋(いかだばし)は文政二年(一八一九)七月、同じ高山三之町村の中橋と鍛冶橋との間に初めて架設された橋で、掛替(かけか)え工事が行なわれた嘉永二年(一八四九)は、創設からちょうど三〇年目にあたる。
長さ一八間(約三三メートル)・幅六尺(約一・八二メートル)の板橋で、寛政七年(一七九五)現在の中橋(長さ一八間・幅二間))、鍛冶橋(長さ一九間半・幅十尺)と比べてみると、幅がかなり狭いものの、宮川の東と西を結ぶ橋として市民に大いに重宝がられた。
ところで、江戸時代は幕領・私領を問わず材木の伐出しは領主の非常に厳しい管理下に置かれていた。
ここに掲載した願書二通には、ともに、御林山の管理にあたっている山見役の名が記載されていないので、若宮森(灘郷石浦村)の杉、宮村さかさま谷の栗の木とも、百姓山(入会山・仲間山)の木であると考えられるがこうした願書が提出されると、高山御役所の役人による現地検分、普請所における用材の点検、工事完成後の出来形帳の提出と検分等、厄介な手続きが待っていたのである。
また、この文書で注目すべきことは、古くから「代官橋」と呼ばれていた中橋の優位性である。
嘉永二年(一八四九)に行なわれたのは筏橋の掛替えであるが、その筏橋の敷板(しきいた)は中橋の古材(ふるざい)を使い、中橋の敷板が新しく宮村のさかさま谷から伐出されたのである。
このほかにも、中橋が他の橋に比べて優位を誇っていた事例は、いくつかの古文書の中にみえている。
なお、この願書の中に、用材の伐出しが許可されたならば、あとはすべて「村内自普請」によって工事を推進すると書かれているが、それは、高山町のみの力(労力・費用)によって工事を完成させるという意味ではなく、お上に対して経済的な援助を願い出るようなことは決していたしませんという意味である。
元禄十二年(一六九九)、飛騨代官伊奈半左衛門の提案によって、国内の主要街道に架かる二七カ所の大きな橋は御入用橋に指定され、改修・復旧を要する場合には、助人足一人当り一日五合ずつの扶持米が幕府から支給されることになっていた。
しかし、享保六年(一七二一)、幕府の財政支出の削減政策によって御入用橋の制度は廃止され、国内の道路・橋・川除などの普請にかかる費用は、すべて領民が共同で負担する、いわゆる国中余荷(よなり)普請制度に大きく変更された。
それ以来、この余荷普請制度をめぐって、災害程度の査定、余荷普請の対象等をめぐって、毎年のように意見の対立が起こった。
しかし、寛政二年(一七九〇)、大原騒動のあと飛騨郡代となった飯塚常之亟が「国中余荷普請金積立制度」を提唱した。
この制度は、いわば災害復旧普請金積立制度とも言うべきもので、平時から村高に応じて災害復旧資金を積み立てておき、災害時にはそれに見合う援助金を支給するという制度である。
御役所の主導で始められ、資金の管理運用も御役所が担当したが、領民自治の一端として注目に値する事業ということができよう。
従って、嘉永二年の筏橋掛替普請に対して、当然、国中余荷普請金が支給されたはずである。
一部の限られた史料をみると、国中余荷普請金の多額の支給を受けているのは、高山三之町村・阿多野郷上ケ洞村地区、益田街道方面の村々である。