岐阜県歴史資料館・飛騨郡代高山陣屋文書1-55-53-3、4 (5-1-1 図 ①)
下原町村は飛騨の南玄関口ともいわれ、古くから極めて重要な位置にあって、私領時代には砦(とりで)の役割を持つ金森氏の旅館があったところである。
下原口御番所は役人が二人常駐していて、通行人を見張り、口役荷物からは口役銀を取立てた。
史料として提出しているのは、嘉永三年(一八五〇)正月分と文久元年(一八六一)の五月分のものである。
二冊の取立帳の集計は
嘉永三年正月分 銀二貫七六六匁四分六厘
文久元年五月分 銀一貫一八匁四分七厘
嘉永三年正月分が約三〇両、文久元年五月分が約二〇両である。
夏よりも冬である前者の口役銀が一・五倍になっているのは、
① 楮・みかん・蕨粉など収穫期直後のことであること
② 砂糖など正月を迎えて消費が増えたこと
③ 農家は農閑期であるため、かえって商いがやりやすいこと
などが考えられる。
下原口を通る役荷物の品目には特に目立つ傾向は見られないが、砂糖・黄綿・小間物等の比率が高いと言えよう。
ちなみに、たとえば同じ美濃の国境にある御厩野口では米が一番重要な品目で毎月口役銀のトップを占めているのに、下原口には米の移入が全く見られない。
これは、あるいは下原口は無役米(むやくまい)の通行が認められていた番所であったのかもしれない。無役米はあらかじめ村単位で御役所へ申請しておいて、年数を定めて口役銀を免除してもらうのである。
定式無役米は、益田郡南部の諸村・高山町・阿多野郷・白川郷に多かったが、詳細な史料は遺っていない。
天保の凶作の時などは、臨時無役米の制度が取られた。
なお、たびたび触れることであるが、塩・白木・生糸などは、仲買人の代表を通してまとめて運上金を納め、国外へ売り出すシステムが整っていたので、口番所では口役銀を納めないで通過した。
一方、口役荷物の運搬の実態をみると、益田街道筋には久々野郷を中心に専門の運送業者がいて、美濃と高山の間を往来していたことがわかる。
特に美濃町の上有知(こうずち)(川湊・かわみなと)や関が、物資の集散拠点となっていた。
ここでは、一日単位に記録してある(筆工が清書して御役所へ提出している)取立帳を、品目別にまとめて集計表を作成し、江戸時代末の飛騨の流通経済の実態を捕らえてみることにした。