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[天保五年午六月 御厩野口(みまいのぐち)御番所演説書(えんぜつしょ)下書(抄)]

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岐阜県歴史資料館・飛騨郡代高山陣屋文書1-55-64 (5-1-1 図 ⑦)

5-2-(8)-1 御厩野口御番所演説書下書

 「演説書」とは一般に、代官など幕府の役人が交替する場合に、前任者が後任あてに認めた、いわば事務引継ぎ文書を示しており、文書の標題にもよく用いられている。
 この「御厩野口御番所演説書」には、書き手の名前もあて先も記されていないが、文章の内容から、口留番所役人が交替する時に認めた事務引継ぎ書の下書であることはほぼ確かであろう。
 この演説書の成立年代を天保五年(一八三四)としたのは、記述の中に天保二年(卯・一八三一)の事項が含まれていることからの推定である。
 ところで、この演説書下書に目を通してみると、当時の口留番所役人が、薄給の身ながらいかに些細(ささい)なことにまで気を配っていたか、その勤務の実態が目に浮かんできて、世相、歴史の真実の一面に触れる想いがする。
 以下、演説書下書からいくつかの事項を意訳して記してみる。
一、扶持米(ふちまい・番所役人の給与)は、乗政・宮地・野尻・御厩野四カ村(竹原郷)が上納する年貢米の一部
 が充てられることになっています。
一、御番所の薪は、当御厩野村の定使(じょうつかい・名主の下にいていろいろ村の雑用を勤める)が差配してくれます。
一、薪の値段は
   一貫目に付き 上木は銀一匁二分五厘
          中木は銀一匁
          下木は銀八分三厘
  但し、長さは六尺二寸と決まっています。
一、竹原郷四カ村は当番所の御用人足を勤めることになっていますから、もしこの村々が美濃から飯米を買い入
 れる場合は、正規の口役銀の半額にすることになっています。
一、美濃の方へ私用で出かけた者が、帰りに荷物の中へ鰹節などを隠して持ち込むことがありますから、注意し
 て下さい。
一、一般の飯米(はんまい)が当御番所を通る場合の口役銀は、竹原郷内ならば一石に付き銀六分二厘、下呂郷か
 ら加子母辺までは七分二厘を取立てることになっています。
  但し、これは近年、二厘ずつ増したものです。
一、瀬戸物は一荷(約一六貫)に付き一匁四分一厘から一匁五分くらいまで、御役人の御見分によって加減して下
 さい。
 (註、他の口番所取立帳では、瀬戸物は荷駄の箇数を記録している。この荷駄数は荷主の申請によるもので、
 口番所で茶碗などを一箇一箇勘定したのではないと思われる。)
一、美濃加子母村の者が竹原郷の親類へ用事で来た場合、前々から無手形の通行が許されることになっています
 が、時に加子母村より東の方の者が加子母村の者であると偽って通ることがありますから、不審な者について
 は行先の村の名主から証明を取って下さい。
一、高山の肴商人が加子母へ酒を送る場合、その中に酢の樽をまぜて送ることがあります。酒と酢はよくかざを
 かいで改めて下さい。
 (酢の方がわずかに酒より口役銀が高かった。)
一、紺屋藍鉢の通行については、先例がなく、天保二年(一八三一)卯(う)三月に初めて当御番所を通りましたの
 で、下原口御番所にならって、四〇箇に口役銀四分六厘ずつ取り立てることになっております。
 (註、下原口御番所の文久元年(一八六一)五月分取立帳も、紺屋藍鉢四〇箇に口役銀四分六厘ずつを課してい
 る。)
 
 以上、一〇項目を例示したが、この演説書は、よく紹介される「壁書」・「口役銀取立帳」が語らない、口留御番所の実態(歴史)をリアルに物語っている。