5-2-(12)-1 寺河戸口御番所口役銀取立帳
〔表紙〕
文政五年
寺河戸口御番所口役銀(くちやくぎん)取立帳
午 五月
〔本文〕
表紙共廿拾枚
五月朔日 黒谷村
一 壱匁也 稗壱石也 為右衛門
同 二日
一 役荷物通り なし
同 三日 越中城端
一 壱匁八厘 大根種四升 権四郎
一 壱分四厘 中茶弐斤 同人
〆 壱匁弐分弐厘
同 四日
一 役荷物通り なし
同 五日
一 役荷物通り なし
同 六日
一 役荷物通り なし
同 七日
一 役荷物通り なし
同 八日
一 役荷物通り なし
同 九日
一 役荷物通り なし
同 十日
一 役荷物通り なし
同十一日 黒谷村
一 五分 稗五斗 与左衛門
同十二日
一 役荷物通り なし
同十三日
一 役荷物通り なし
同十四日 濃州奥長尾村
一 壱匁也 稗壱石也 太四郎
同十五日
一 役荷物通り なし
同十六日
一 役荷物通り なし
同十七日 牛丸村
一 弐分七厘 塗折敷壱束 勇蔵
〆
一 三分 稗三斗 寺河戸村
与右衛門
〆
小以(こい) 五分七厘
同十八日
一 役荷物通り なし
同十九日
一 役荷物通り なし
同 廿日 三尾河村
一 四分 稗四斗 茂右衛門
〆 濃州畑佐村
一 壱匁也 稗壱石 惣左衛門
〆
小以 壱匁四分
同廿一日
一 役荷物通り なし
同廿二日
一 役荷物通り なし
同廿三日
一 役荷物通り なし
同廿四日
一 役荷物通り なし
同廿五日
一 役荷物通り なし
同廿六日
一 役荷物通り なし
同廿七日
一 役荷物通り なし
同廿八日
一 役荷物通り なし
同廿九日
一 役荷物通り なし
合 銀五匁六分九厘
外銀拾三匁五分壱厘 去巳減
右は午五月中、寺河戸番所ニて取立て候御口役銀、書面の通り御座候。
午六月朔日 土屋平右衛門 印
高山
御役所
〔解説〕
寺河戸口御番所は、金森藩領時代から幕領時代を通して、大野郡白川郷寺河戸村に置かれていた。
寺河戸村は大野郡白川郷の最も北部に位置する。いわゆる白川街道が街道中最大の難所軽岡峠を越えたあと、黒谷・新渕・牧戸・中野などの主要な村々を通って白川郷の中心萩町村へと進んでいく途中、一本の脇街道が黒谷村で南へ折れ、寺河戸村を経て美濃国郡上郡八幡城下へと通じていた。
寺河戸より大峠四里を越えて郡上郡坂本村の支村水澤上へ出、それより坂本・畑佐・吉田村を経て八幡城下へ出た。高山より国境まで十一里三十丁余、寺河戸より郡上八幡まで十里。
もともと口留番所は、江戸時代になって私領に関所を置くことを禁じられたため、領国を持つ大名は国境や国内の交通の要所にひっそりと設けた、小さな関所とでも言うべきもので、人の往来や諸物資の出入りを取締り、物資からは通行税を徴収したのである。
しかし、世の中が穏かになって、軍事的な意味が薄れてくると、口番所は通行税(口役銀)を徴収するための機関としての性格を強めていった。
しかし、寺河戸口御番所は前記のように地理的条件が悪く、人や物資の通行は極めて少なかった。
「役荷物通りなし」という日が多く、たまに通るのは「稗一石」・「そば十貫目」。稗の口役銀は安く、米の半分、一石当り銀一匁であった。口役銀の言葉が意味しているように、通行税はすべて「銀勘定」であった。銀六〇匁で金一両である。
寺河戸から坂本へ出る峠は四里半、険しい山道で、荷物は人の背で運ばれたので、稗でもそばでも大量には運べなかった。
しかし、寺河戸口番所は明治四年まで続き、高山御役所の地役人が一人、番所を守っていた。番所役人は、地役人の中でも最も低い賃金であった。