安政六年未正月
野々俣口御番所口役銀取立帳
野々俣口御番所跡は、現高山市荘川町野々俣地区の中心部で国道一五八号から少し南へ入ったところに現存している。
江戸時代には、いわゆる白川街道を高山町から西へ進み、小鳥峠・松ノ木峠・軽岡峠という大きな三つの峠を越えて、白川郷三尾河(みおご)村の支村三谷(さんたに)村から庄川水系に沿って北進すると、今日荘川町の中心部となっている新渕村に街道の大きな分岐点があった。
その分岐点で、萩町方面へ向かう白川本街道と別かれて、ほぼ直角に西へ進んで庄川を渡り、町屋村から小さな峠(町屋峠という)を越えると、野々俣村へ出たのである。
野々俣村は美濃国郡上郡に接する国境の村として軍事的に重要な地点にあり、天正十四年(一五八六)飛騨の領主となった金森長近は野々俣村に口留番所を設けて、国境の守りを固めた。
また、天正年中から六厩金山(白川郷六厩村・現荘川町六厩)が、少し遅れて三尾河銅山(白川郷三尾河・現荘川町三尾河)が開かれると、郡上八幡町方面から入る鉱山必需品・生活必要物資の往来によって、野々俣口番所は隆盛を極めた。
しかし、寛文年中(一六六一~七二)ころから鉱山が涸渇しはじめると、物資のみならず人々の往来も次第に減少していった。
もともと白川郷は越中城端・高岡の経済圏に属し、その影響力は鳩谷・萩町を越えて、中野御坊のあった中野村、その隣村岩瀬村・牧戸村辺まで及んでいたと考えられる。
従って、郡上八幡町を背景とする野々俣口の経済圏は狭い範囲に押し込められ、さらに同じく郡上八幡町を背景とする寺河戸口も近くにあって、野々俣口の勢いは急落していった。
野々俣口の安政六年(一八五九)二月の口役銀取立額は「銀四六匁四分八厘」、小白川口の安政三年(一八五六)九月の取立額は「銀二三六匁三分八厘」。
二月と言っても新暦の三月五日~四月二日で、ここには季節の違いとは言えない、経済的な背景の違いを認めないわけにはいかない。
ちなみに、この「安政六年・野々俣口口役銀取立帳」には、米・塩・生糸・白木・椀木地等の無役荷物または運上金荷物の往来は記録されていない。
5-2-(16)-1 野々俣口御番所口役銀取立品目一覧 |
安政6年(1859)2月分 |
(新暦3月5日~4月2日にあたる) |
註 この月、野々俣口を通って美濃側へ出た物品は見当たらない。役荷物が1件も通らない日が10日近くある。 |
◎ 野々俣口を通って飛騨へ入った物資 (一)食品 | |||||
品 目 | 記帳件数 | 数量合 | 口役銀合 | 主な荷主の名前・出身地等 | |
1 | 稗 | 5 | 5石7斗 | 5匁7分 | 濃州八幡喜一郎4石5斗ほか、荷主は美濃のみ |
2 | 大豆 | 3 | 5斗 | 8分5厘 | 牛丸・牧戸村各1人、濃州鷲見村1人 |
3 | 酒粕(さけかす) | 1 | 1斗 | 1分8厘 | 濃州西洞村甚三郎 |
4 | 菓子 | 2 | 3貫500目 | 1分2厘 | 同 上 |
5 | 串柿 | 19 | 35束 | 9匁2分5厘 | 新渕・牛丸村各2人、岩瀬町・口村各1人ほか、13人郡上 |
備考 | ○郡上八幡喜一郎のほかは、ほとんど行商を兼ねた運送業者であったと思われる。 | ||||
○串柿は1人で1束か2束。小商い程度。 | |||||
◎ 同上 (二)衣料・小間物・雑貨・その他 | |||||
品 目 | 記帳件数 | 数量合 | 口役銀合 | 主な荷主の名前・出身地等 | |
1 | 黄綿 | 3 | 10貫500目 | 6匁3分 | 濃州八幡喜一郎ほか2人 |
2 | 菅莚 | 4 | 4束 | 1匁 3厘 | 牛丸与四郎、牧戸伝三郎ほか |
3 | 下厨子 | 1 | 1ッ | 3匁 | 濃州中切村作兵衛 |
4 | 浄慶寺砥 | 1 | 20貫 | 4分4厘 | 浄慶寺の土地不明 |
備考 | ○野々俣口を通って飛騨へ入った物の販路は上白川郷に限られていたと考えられる。 | ||||
○下厨子は、小さい仏壇か。 |