この小豆沢口の「口役銀取立帳」は、嘉永二年(一八四九)十一月一カ月分、口役荷物一一二項目・口役銀八三七匁六厘(約一四両)を記録している。
嘉永二年の十一月は、現在の十二月十五日から一月十三日にあたり、冬の積雪期に入っているため、諸荷物の通行が途絶えがちで、楮(こうぞ)(二七〇〇貫余)と米(九一石余)の通行量が大半を占めている。
当時飛騨における楮の総生産量は年間およそ一万五〇〇〇貫と言われ、その主生産地はいわゆる山中紙の名で知られている杉原・小野・巣納谷・打保・小豆沢などを中心とする地域であった。
しかし、越中八尾は富山の売薬の包紙などを中心に製紙業が盛んで、飛騨の楮を争って買いつけた。製紙の原料に不足をきたした高山の紙生産者は国内はもちろん信州方面から屑紙を買い入れてその需要にあてている。(「上ヶ洞口口役銀取立帳」参照)
一方、越中からの米の搬入は、小豆沢口の十一月分だけで九一石を超えている。そのうち桑ヶ谷村次郎兵衛の一二石八斗四升、同村弥兵衛の八石七斗など七件を除くとあとの三〇件余はすべて三斗から一石前後の自家用飯米である。
当時、飯米が不足している地域、たとえば高山町・白川郷・阿多野郷奥組・益田郡の諸村では、御役所へ申請して越中・美濃国からの定式無役米(じょうしきむやくまい・一定期間一定量の口役銀免除移入米)を買い入れていた。
しかし、この小豆沢を中心とする地域には無役米に関する文書は遺っていない。この地域では無役米を申請することなく、自力で飯米の不足分を買い入れていたのであろう。
ちなみに、この「口役銀取立帳」の末尾には、橅椀木地(ぶなわんきじ)一二五箇(一箇は椀木地一〇二具、総箇数一万二七五〇具)の国外移出の様子が記録されている。
従来、飛騨国内で生産された椀木地は京都・黒江(現和歌山県)へ売り出され、能登の輪島方面へ移出されることはなかったとも言われてきたが、この記録はその説を否定することになるかもしれない。
この「口役銀取立帳」にみえる椀木地稼ぎ人(仲買人)の一人高山町千虎屋弥右衛門は後に造酒業によって財をなす老田屋。一之宿村中嶋清左衛門(現高山市朝日町一之宿)は、国内のあちこちで手広く鉱山・材木・白木稼ぎ等に活躍した、辺地出身の実業家である。