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[荒田口御番所口役銀取立帳]

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岐阜県歴史資料館・飛騨郡代高山陣屋文書1-55-49
 
  万延二年酉二月分
 荒田口御番所口役銀取立帳
 
 荒田口御番所は、吉城郡高原郷横山村字荒田にあり、いわゆる越中東街道の最北、越中国に境する、極めて重要な御番所の一つであった。
 『飛騨国中案内』は、最初横山村の他の場所に設けられており、七〇年ほど後、村民の要望があって字荒田へ移転した、と記している。
 現在は国道より一五メートルほど高い場所に、旧道に続いて屋敷跡・石垣などが遺っていて、口番所の遺跡としては最もその原形を留めている。
 越中東街道は、舟津町・古川町・高山町を背景として、米・塩・肴の道として栄え、越中街道の中心となった。
 しかし、この「口役銀取立帳」には、米と塩のほか、白木・椀木地・生糸などは記録されていない。
 越中は米がよく穫れる国で需要量の二倍生産され、飛騨は「人余って食足らざる国」と言われ、国内で生産できる米は必要量の六〇%に過ぎず(坪内庄次氏)、不足分を越中と美濃の国から移入していた。
 越中から入る米は「登り米」または「登らせ米」と称し、その量は年平均およそ五〇〇〇石(『富山県史』・『細入村史』)に上った。
 しかし、弱みにつけ込んで暴利をむさぼる米商人の動きを抑えるため、幕府は定式無役米制度(じょうしきむやくまいせいど)を設けて、村や町から公に申請があった場合、一定期間、その分の米は無役(無税)で口留番所を通ることを許可した。
 従って、無役米は役荷物にあたらないため、口番所の「口役銀取立帳」には記録されていない。
 一方、国内生産皆無の塩は、移入販売ともに高山御役所の厳しい統制下に置かれたので、口役銀取立帳に記録されることはなかった。
 また、白木・椀木地・生糸などの主要生産物については、事前に御役所へ運上金を納めて移出する制度がとられたので、たとえ口番所を通ったとしても、口役銀を課せられることはなかった。
 しかし、こうした幕府の経済政策は、幕領時代に入った最初から完全に整っていたわけではなく、政策の変更もたびたび行われている。細部についてはいっそうの調査研究が必要であろう。
 ところで、この「万延二年・荒田口口役銀取立帳」に目を通してみると、大小さまざまな歴史的事実がわかってくる。
 その中で最も大きなことがらは、越中街道の諸物資の運送はほとんど越中側の運送業者によって押さえられているということである。
 国境を越えて荒田口を過ぎてから、越中側の運送業者がどこまで飛騨国内へ入り込んでいたか、詳細は不明であるが、少なくともこの「荒田口口役銀取立帳」には、飛騨側の商人ないし運送業者が越中国内へ入って商品の販売・買付けを行った形跡はほとんど見られない。
 もともと越中側の商人(あるいは運送業者)は、地元の余剰生産物である米・塩・肴などを飛騨へ運び込んで販売し、その帰り荷に白木・美濃茶・楮等を仕入れて運ぶという経済構造が存在していたと言われている。
 それは、人間にとって最も重要な生活必需品の生産地という強みがあったからであろう。
 「荒田口口役銀取立帳」に記載されている荷主名のおよそ八〇%が越中側の業者によって占められているが、このことを、「下原口口役銀取立帳」及び「上ヶ洞口口役銀取立帳」と比較してみると、非常に大きな違いがあることがわかる。
 すなわち、「下原口口役銀取立帳」に記録されている荷主の過半数は久々野郷・河内郷を中心とする益田街道筋の人々によって占められており、「上ヶ洞口口役銀取立帳」の荷主の八〇%は高山町及びその周辺の人々によって占められているのである。
 越中街道の物資の往来は越中の業者によって握られ、益田街道・信州街道の役荷物の流通には飛騨側の業者の権利が大きく及んでいた。
 交易上にこうした大きな違いが生じた原因の一つは、私領時代の金森藩の交通政策にあったことは、容易に考えられることである。
 すなわち、金森藩は経済的利益を目的として、高山町から美濃関・上有知(こうずち)方面へ通じる街道の整備に力を注ぎ、高山と江戸との交通をより容易にするために信州街道の開発・改良に力を尽した。
 越中街道にも千貫橋や原太郎助の話は伝えられているが、益田街道のような宿駅や伝馬制度の整備にまでは至らなかった。
 そのことは、幕領時代の流通経済にも大きな影響を与えたと考えられる。
 ちなみに、この「万延二年・荒田口口役銀取立帳」に目を通してみると、右のほかにいくつかの興味深い歴史的事実が分かってくる。
① 登り肴の量が意外に多く、一か月に小魚の干鰯・鰯・小鯖だけでも二七万匹が飛騨へ入っている。
② 三月になっても、無塩の魚が飛騨へ入っている。
③ 高山二之町忠治郎(打保屋・平田家)が蝋一四三斤を仕入れ、高い口役銀を納めている。(豪商打保屋多角経営の実証)
④ 高山町国分寺道「柳蔵」が、茶碗・染付皿・天目を移入している。(渋草柳造の古話)
⑤ 鉱山師一之宿村(現高山市朝日町一之宿)清左衛門は、下原口に続いて荒田口でも鉛二〇貫を越中へ売り出している。
⑥ 富山の薬業が盛んになると、薬の包紙・袋などの生産を受け持っていた八尾の製紙業も急速に発展し、飛騨の楮の買入れをめぐって激しい競争が起こった。高山町の製紙業者が信州から屑紙を買入れるという事態も生じている。(「上ヶ洞口口役銀取立帳」文政二年二月分・文久四年三月分・元治元年五月分)
 
 
5-2-(22)-1 荒田口御番所口役銀取立品目一覧表
万延2年(1861)2月分
(新暦3月11日~4月9日)

 荒田口を通って越中側より飛騨へ入った物資 (一)肴類
 品 目記帳件数数量合口役銀合主な荷主の出身地等
1干鰯荷主
  越中
112161,850161匁8分5厘荷主は産地ではなく、街道筋の運送業者と思われる。
荷主
  飛騨
1015,00015匁   舟津町・古川町・半田・今・東門前・上広瀬村など
122176,850176匁8分5厘1,600匹単位で運送
2荷主
  越中
4746,10067匁6分5厘荷主は街道筋の運送業者と思われる。
荷主
  飛騨
99,00013匁5分  舟津町・木曽垣内村などのほか、高山新町・新宮村など
5655,10030匁1分5厘鰯は生鰯と思われ、1,000匹単位。干鰯より高値。
3小鯖荷主
  越中
6735,19088匁3分  四方港の名もみえるが、中心は街道筋の運送業者
荷主
  飛騨
42,4806匁6分8厘村山・三川・上広瀬・広瀬町
7137,67094匁9分8厘620匹・450匹単位が多い。生か半干しか不明。
4荷主
  越中
1055本14匁7分1厘富山・水橋・大久保
荷主
  飛騨
17本1匁8分7厘新宮村喜兵衛1人
1162本16匁5分8厘本で数えているので生物か。
5無塩鱒荷主
  越中
2328本24匁9分2厘富山・水橋・滑川・笹津などの街道筋の業者が多い。
荷主
  飛騨
000無塩鱒は高山へも運ばれたが…
2328本24匁9分2厘2本は5人。ほかは1本ずつ。
ほかの品物といっしょに運ぶ例が多い。
註 飛騨への登り魚の荷主はほとんど越中側の商人・運送業者である。詳細は解説編に記述している。
 
6干鱈(ひだら)6660枚8匁7分8厘水橋・滑川・笹津・猪ノ谷
7八目(はちめ)411,84033匁1分2厘滑川10・高月8・水橋13・富山5・新庄3ほか
8鰆(さわら)212本3匁2分1厘大久保・富山
9大鰈
(おおかれい)
9290枚7匁8分3厘高月3・水橋4・滑川1・新庄1
10無塩中鯛
(ぶえんちゅうだい)
629枚5匁1分6厘水橋3・高月2・滑川1 1度に4枚か5枚ずつ
11無塩中𩺊
(ぶえんちゅうあら)
11110本6匁8分2厘滑川3・水橋2・新庄2・高月2ほか 10本単位
12無塩大鰡
(むえんおおぼら)
120本1匁4分2厘越中笹津
13無塩中鰡
(むえんちゅうぼら)
11165本7匁2分6厘富山4・高月・滑川・水橋各2
14無塩中鱈
(むえんちゅうたら)
115本6分6厘越中新庄
15蒲鉾(かまぼこ)297,78037匁5分  富山22・飛騨からは広瀬町利八ただ1人
16田作(たつくり)143石4斗18匁  9厘6斗ずつが多い。越中商人の中に、信州松本の1人あり。
備考○1か月間に、干鰯・鰯・小鯖合わせて約27万匹の小魚が飛騨へ入っている。
○肴荷物の件数は1か月で414件、うち飛騨の商人の名を記録しているのはわずか25件である。
少なくとも国境までは、越中側の魚商人または運送業者が流通の権利を独占していたと考えられる。

 同上 (二)肴類のほかの食品
 品 目記帳件数数量合口役銀合主な荷主の出身地等
1荷主
  越中
159石9斗19匁8分7厘越中新庄4・寺津6・猪の谷4
荷主
  飛騨
62石4斗4匁8分  舟津町6人
2112石3斗24匁6分7厘このほかに口役銀を納めない定式無役米がある。
2酒(さけ)1010石5斗13匁4分  荷主は富山・大久保・八木山・八尾など
産地、行き先不明
3糀(こうじ)28斗4升1匁2分6厘富山 行き先は近くか。
4菓子(かし)413貫3匁7分7厘富山のみ4人
5梨子(なし)29604匁  4厘大久保・八木山 産地不明。
備考○米の移入は、端境期にはかなり増えたと考えられる。飛騨の荷主6人(舟津町)で自家用飯米程度である。
○酒はどこまで運ばれたか、送り先は不明である。

 同上 (三)衣料・小間物・雑貨・その他
 品 目記帳件数数量合口役銀合主な荷主の出身地等
1木綿755反11匁5分5厘富山の3人で35反・越中上市4人で20反
2古手16枚1匁8分6厘八尾商人
3小間物1111貫200目9匁2分2厘富山・高岡・上市 信州の商人が2人通っている。
4二升鍋11枚2分2厘高岡角次郎、役荷物はこの1枚のみ 他の記録はない。
5中膳110枚1匁   富山
6越中椀13束1匁  8厘富山
7柿紙2120枚5匁2分8厘越中八尾 
八尾は紙の産地 柿紙は柿の渋紙
8蝋(ろう)2143斤50匁9分1厘高山二之町忠次郎(打保屋)
小間物も商う。口役銀極めて高い。
9小茶釜(こちゃがま)76317匁  3厘荷主高山川原町・広瀬町・下切・三日町・宮地など
高岡で買ったのであろう。
10売薬(ばいやく)51貫800目1匁4分4厘全員越中富山 行き先は不明。
11丸竹(まるたけ)9144貫4匁5分9厘大久保・寺津など
12菅笠荷主
  越中
755,430かい238匁9分2厘井波・八木山・寺津・大久保・猪ノ谷・八尾・楡原・富山など
荷主
  飛騨
312,065かい90匁8分6厘高山町方・日影町・空町・三川・金桶・広瀬町・古川町・舟津町
1067,495かい329匁7分8厘大量の菅笠販売のルート不明。
13笠緒(かさお)55,000筋7匁5分  大久保・高岡・猪ノ谷
14茶碗(ちゃわん)13007匁5分  荷主は高山国分寺道 柳蔵
15染付皿
(そめつけざら)
12003匁6分  荷主は高山国分寺道 柳蔵
16天目(てんもく)12002匁6分  荷主は高山国分寺道 柳蔵
備考○菅笠は約7,500。荷主は街道筋の商人が多く、90かいは1人では背負えず、2人1組である。
 これだけの量が飛騨国内で消費されたとは考えられず、美濃・尾張方面への通過荷物であったかもしれない。
○茶碗・染付皿・天目の移入荷主柳蔵は渋草焼の柳蔵か。

 荒田口を通って、飛騨から越中方面へ売り出されたと考えられる物
 品 目記帳件数数量合口役銀合主な荷主の出身地等
1薬種(やくしゅ)420貫100目16匁  8厘高山町方と上広瀬から11貫100・富山9貫
2楮(こうぞ)1088貫18匁6分  荷主は三川・漆垣内・半田・舟津町 
生産地即荷主かどうか不明。
3鹿皮(しかかわ)13枚1匁3分2厘越中新庄 鹿皮の出所不明。
4古鉄(ふるてつ)225貫2匁3分  越中大久保 古鉄の出所不明。
5鉛(なまり)120貫2匁   一之宿村清左衛門
備考○楮については、小豆沢口嘉永2年(1849)11月分の口役銀取立帳が70件2,700貫を口役荷物として記録している。
 越中八尾も紙の有数な生産地で、飛騨の楮をめぐって、買取り競争がはげしかったといわれている。
○一之宿(現高山市朝日町)清左衛門は、白木・鉱山の経営者として知られ、下原口御番所の口役銀取立帳(文久元年・5月分)も、
 鉛80貫の荷主として記録している。