6-1-(2)-1 日和田・原家文書(二)
(表紙)
天明八戊申
御巡見様御通之節□
(記録)
一 金森出雲守様御領地
三万八千石余
金森出雲守様羽州帋之山へ (帋=上)
御国替、元禄五申年より当申迄
凡九十ケ年ニ成
一 伊奈半重郎様御支配
四万四千百五石余
其後安永年御地改ニ而
左之通
一 飛騨国三郡合四百拾四ケ村
高五万五千六百六拾七石二斗三升
三合
一 阿多野郷 三拾七ケ村
高千九百四拾七石五斗四升五合
一 奥山中 拾弐ヶ村
高百八拾壱石三斗六升八合
但先年ハ八拾石六斗九升弐合
家数三百弐拾壱軒
内 百姓 百三拾五軒
家抱 百七拾七軒
門屋 三軒
地借 四軒
一 人別千六百六拾五人
内 男 八百三十九人
女 八百弐十六人
猪鼻村
一 家数拾軒
内 百姓 六軒
家抱 四軒
人別七拾壱人
内 男 三拾弐人
女 三拾九人
一 高七石三斗弐升三合
此反別六町七反七歩
取米弐石五升
一 飼牛 八疋
内 壱疋馬
一 板橋 壱ケ所
但シ 長 六間
巾 八尺
川巾三間
一 猪鼻谷奥へ三里
中洞村
一 家数三拾六軒
内 百姓 拾八軒
家抱 拾八軒
一 人別弐百三拾七人
内 男 百九人
女 百弐拾八人
一 高弐拾壱石三斗弐升四合
此反別拾六町三反弐畝拾八歩
取米八石壱斗五升弐合七勺
一 飼牛 三拾五疋
内 五疋馬
一 寺壱ケ寺 安楽寺
浄土真宗京都東本願寺末
除地壱畝六歩 高六升三勺
(以下十か村・諸色値段附は史料(二)‐②・一一七頁に載る)
御巡見様御名覚書
一 御国廻御巡見
朝比奈 左近様
遠山 久四郎様
大河内 彦四郎様
右御三人
一 御料所廻御順見
比留間助左衛門様
林 宗三郎様
工藤八郎右衛門様
右御三人
〔解説〕
○ 松平定信が老中首座についたのは、天明七年六月。
○ 御国廻巡見(大巡見)が飛騨を通ったのは、天明七年七月。
○ 御料所巡見(小巡見)が能登・越中を経て飛騨へ入ったのは、寛政(天明九年一月に改元)の五月。大萱村に四
日間滞在して、農民の訴えを聴き届けた時である。
○ 第十三代飛騨郡代大原亀五郎が江戸へ召喚されて、郡代職を罷免されたのは寛政元年八月。
この史料は、表紙に「天明八戊申・御巡見様御通之節□」と記帳されており、帳の終わりの部分に
右は御巡見様御尋これ有る節ハ、右之
通りニ御答へ申し上げるべき事
と記されているから、いわゆる「村差出明細帳」とは違って、ごく簡単に村況が記されている。
天明八年七月、朝比奈左近らの大巡見(全国をいくつかに分けて、幕領・私領の区別なくすべての国々を巡見した)は奥山中を通って野麦から江戸へ帰っているが、寛政元年五月の小巡見使比留門助左衛門らは野麦を通らず、御厩野を通って江戸へ帰っている。
この史料で注目すべきことは、奥山中には「家抱」が多いこと、日和田・小日和田にもまだ馬が少なく、牛が多いこと。『高根村史』をみても、原家の歴史、特に馬大尽としての発展のいきさつはよくわからないが、いずれ明らかにされなければならないことである。