6-1-(4)-1 日和田・原家文書(五)
6-1-(4)-1 日和田・原家文書(五)
〔表紙〕
御国廻
並びニ
御巡見様御朱印写 御先触写
〔御朱印写〕(読み下し文)
御朱印写
人足八人馬拾五疋(ひき)、江戸より駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・伊賀・美濃・飛騨・信濃・甲斐迄、上(のぼ)り下(くだ)りこれを出すべし。是れは右の国々巡見のため、土屋一左衛門遣(つかわ)され候ニ付き、これ下さるもの也。
天保九年三月
右宿中
御朱印写
人足八人馬拾五疋、江戸より駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・伊賀・美濃・飛騨・信濃・甲斐迄、上り下りこれを出すべし。是れは右の国々巡見のため、設楽(したら)甚十郎遣し候ニ付き、これ下さるもの也。
天保九年三月
右宿中
御朱印写
人足八人馬拾五疋、江戸より駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・(伊賀)・美濃・飛騨・信濃・甲斐迄、上り下りこれを出すべし。是れは右の国々巡見のため水野藤十郎遣され候ニ付き、これ下さるもの也。
天保九年三月
右宿中
先触(さきぶれ)
御朱印
一 人足 八人
同断
一 馬 拾五疋
内九疋入用(にゅうよう)、残り馬六疋人足拾弐人ニ替え、都合(つごう)人足弐拾人
一 賃(ちん)人足 拾六人
合(あわせ)人足三拾六人 此の人割
挟箱持(はさばこもち) 弐人
具足持(ぐそくもち) 弐人
乗物 壱荷 四人
茶弁当 壱荷 壱人
箪笥 壱棹(ひとさお) 弐人
長持 壱棹 弐人
両掛 四荷 四人
担灯籠(かつぎとうろう) 壱荷 壱人
合羽籠(かっぱかご) 三荷 三人
竹馬 弐荷 弐人
分持 壱人
供駕籠 五挺 拾人
供鎗持 弐人
〆
右、土屋一左衛門分
御朱印
一 人足 八人
同断
一 馬 拾五疋
内九疋入用、残り馬六疋人足拾弐人ニ替え、都合人足弐拾人
一 賃人足 拾五人
合人足三拾五人
此人割
両掛 五荷 五人
具足持 弐人
乗物 壱挺 弐人
茶弁当 壱人
箪笥 壱棹 弐人
長持 壱棹 弐人
担灯籠 壱荷 壱人
合羽籠 三荷 三人
竹馬 弐荷 弐人
分持 壱人
供駕籠 六挺 拾弐人
供鎗持 弐人
〆
右、設楽甚十郎分
御朱印
一 人足 八人
一 馬 拾五疋
内馬九疋入用、残り馬六疋人足拾弐人ニ替え、都合人足弐拾人
一 賃人足 拾壱人
合人足 三拾壱人
此人割
具足持 弐人
乗物 壱挺 弐人
茶弁当 壱人
箪笥 壱棹 弐人
長持 壱棹 弐人
両掛 五荷 五人
担灯籠 壱荷 壱人
合羽籠 三荷 三人
竹馬 弐荷 弐人
分持 壱人
供駕籠 四挺 八人
供鎗持 弐人
〆
右、水野藤十郎分
右、一左衛門・甚十郎・藤十郎、東海道筋巡見のため駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩・伊賀・美濃・飛騨・信濃・甲斐相廻られ候ニ付き、人足馬これ下され、則ち、
御朱印写三枚並びニ休泊附き別紙添え、相達し申し候。これに依り書面の人馬、宿々(しゅくしゅく)村々遅滞(ちたい)無く差し出すべく候。川々渡し是れ又遅滞無き様、前宿(ぜんしゅく)より通達これ有るべし。尤(もっと)も道筋、先年御国廻りの通り相越され候間、其の段相心得べく候。此の先触、遅滞無く継ぎ送り、高嶋城下町泊り一左衛門方へ相返さるべく候。
以上
水野藤十郎内
森 安兵衛
梶川源助
設楽甚十郎内
若林惣兵衛
高石伝左衛門
土屋一左衛門内
木村源三郎
□本金太郎
飛州益田郡上ヶ洞村より
信州諏訪郡高嶋城下町迄
右宿々問屋
村々役人中
閏(うるう)四月廿日
飛州益田郡 上ヶ洞村 昼休
野麦村 泊り
同廿一日
信州筑摩郡 寄合渡(よりあいど) 昼休
同 薮原(やぶはら)村 泊
同廿二日
同 郡 福嶋村 昼休
同 上ヶ松村 泊
同廿三日
同 須原村 昼休
同 野尻村 泊
閏四月廿四日 弁当 野昼休
同 妻籠村 泊
同廿五日
信州 郡 清内路村 昼休
竹佐村
山木村 泊
同廿六日 同郡 飯田城下町 昼休
河野村 泊
同廿七日
同 郡 片桐村 昼休
上穂村
赤須村 拍
同廿八日
同 郡 西伊奈部村 昼休
高遠 泊
閏四月廿九日
同諏訪郡 栗田村 昼休
高嶋城ヶ町 泊
右の通りニ候。是れより先々ハ、高嶋城下町より申し達すべく候。若(も)し又、差(さ)し支(つか)えこれ有る
所ハ、前回泊りへ申し達すべく候。
一統同勢四拾人宛、本陣三ヶ所の積(つも)り支度これ有るべく候。
一休泊旅籠の義、木銭(きせん)・米代ニて上下共、一汁一菜の外差し出し申す間敷く候。又ハ一汁無菜ニても苦
しからず候。
但し、彼是(かれこれ)ヶ間敷義並びニ酒一切(いっさい)無用ニ候。尤も給仕のもの、女差し出し申す間敷く
候。
一休泊本陣座敷掛物、床餝(とこかざり)、浴衣等差し出し候義無用ニ候。
一宿々村々ニおいて、音物(いんもつ)の義無用たるべく候。前々より指し出し来たり候所たりとも断わりニ及び
候。
一先格寺社巡見これ有る分、其の村々より通達これ有るべく候。
公儀御精進日 八日、十日、十二日、十四日、十七日、廿日、廿四日、晦日
右の通り精進ニて取賄ひ候様、休泊本陣相達せらるべく候。
一巡見通行村々境へ、郡村名書き付け通り札建て置き候様、これ有るべく候。以上。
〔解説〕
第十一代将軍家斉は、天保八年(一八三七)四月、およそ五十年の長きにわたったその職を家慶(いえよし)に譲った。
江戸幕府には、将軍の代替りごとに巡見使を全国に派遣して、諸国の国状を査察すると同時に幕府の権威を誇示する、というイベント的な制度があった。
巡見使一行の人数や、一組が廻る国の数などは時代によってかなり大きな違いはあるが、私領・幕領の別なく全国を隈(くま)なく廻る国廻巡見、いわゆる大巡見は、天和元年(一六八一)以降天保九年(一八三八)までに五回行なわれている。
ここに提示した原家文書「天保九年三月 御巡見様御先触写」は、たまたま国廻御巡見最後の記録にあたることになる。
文書中の「御朱印」は、将軍直々の命によって行動する役職であることを意味し、御朱印土屋一左衛門は御使番、同設楽甚十郎は御書院番、同水野藤十郎は御小姓組で、いずれも若年寄直属の、かなり高い地位の幕臣である。
巡見使は三人一組で、一行およそ百二十人は江戸を出発してから道を東にとり、伊勢・志摩・伊賀を経て美濃の加子母から峠を越え飛騨に入り、下呂・萩原・小坂・久々野を経て、閏四月十七日高山に着き、古川町まで足をのばして同月十九日高山を出立。以下、甲村昼休み、小瀬ヶ洞村泊り、上ヶ洞村昼休み、野麦村に泊まり、同月二十一日国境を越えて寄合渡・薮原に着いている。
しかし、この先触れは、益田郡上ヶ洞村から信州諏訪郡高嶋城下町までの「宿々問屋・村々役人」宛のもので、直接日和田村へ宛たものではない。
国廻巡見使を迎えるともなると国中あげての一大事で、街道筋の村々のみならず郡中会所が中心となって、三郡村々の代表が助郷(すけごう)(街道筋以外の村々から必要な人馬を出して援助すること)等について幾度も会合を重ねたことであろう。
今のところ、この国廻巡見使一行の通行にあたって、日和田組から動員された人足の人数や必要経費の負担額等はわかっていないが、『朝日村史』(平成十年発行)は、街道筋の万石村や甲村では一軒あたりおよそ二・五人の人足を出したと記述している。
一行百二十人の宿泊を受け入れた小瀬ヶ洞村や野麦村は、さぞ大騒動であったことであろう。
ちなみに、幕領(御料)のみを廻国するいわゆる小巡見は、大巡見よりも回数が多く、廻国する国の数も三、四か国で、一組の巡見使の数は三人で大巡見と同じであったが、身分は勘定所の組頭格の人物が多く、御朱印が一人で他の二人は御証文(書付に御朱印が押されていない)という場合が多かった。
御料廻巡見で、飛騨の国にとって忘れることができないのは、寛政元年(一七八九)五月、天明大原騒動の最中に飛騨ヘ入った日留間巡見使たちのことである。
この時幕府はすでに飛騨郡代所の公金横領の実態を察知していたと言われ、日留間巡見使らが帰府すると直ちに飛騨郡代大原亀五郎の出府をうながし、御役御免、その年の十二月、大原郡代に八丈嶋流罪を申し渡すのである。