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1 明治四年十二月、太政官より新貨幣発行の布告

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 旧銅貨の儀、去ル辰年定価仰せ出され候処、今般新貨幣御発行ニ付き、各種比較商量の上当分左の通り品位相定め候条、其の旨相心得新貨幣並びニ金札とも取り交ぜ、聊か差支(さしつか)へ無く通用致すべき事。
  辛未十二月
           太政官
 
〔解説〕
 江戸時代は、いわゆる金・銀・銅の三貨制度に加えて、各藩が発行した藩札が流通し、その上三貨の交換比率もいわゆる変動相場制であったから、金融情勢は極めて不安定であった。
 ところが、明治新政府は財政不如意のため、京都の銀座において、慶応四年四月から翌明治二年六月までの間に、太政官札(だじょうかんさつ)と称する金札を四千八百万両発行して急場の財政を凌ごうとした。
 一方庶民の間には江戸時代の通貨がそのまま流通していたから、日本の金融情勢は江戸時代にまして、はるかに混乱の様相を呈した。
 この「辛未十二月・太政官布告」は、新通貨を発行するにあたり、先に発行された金札ともども、信用して使用するよう国民に求めている。
  新貨並びニ金札の比較
  新貨壱円     金札壱両ニ当ル
  新貨五十銭    金札弐分ニ当ル
  新貨二十五銭   金札壱分ニ当ル
  新貨十二銭半   金札弐朱ニ当ル
  新貨六銭二厘五  金札壱朱ニ当ル
・寛永通宝
 寛永年間(一六二四~四四)から明治初年まで、長い期間に渡っていくども鋳造され、銅一文銭、鉄一文銭、真鍮四文銭、鉄四文銭があり、庶民に最も親しまれた通貨である。
  明治四年の新貨発行にともない、一文銭は一厘に、四文銭は二厘に相当すると定められている。
  四文銭には裏に波の紋が付けられていて「青波銭」とも呼ばれた。

6-1-(5)-1 天保通宝 1枚が百文

・天保通宝
 天保八年(一八三七)に発行された。裏面に「当百」(一枚で百文に相当)と印されているから、天保通宝一枚が百文として通用したわけである。
 
6-1-(5)-2 旧銅貨品位
旧銅貨品位
八厘銭天保通宝
 
 
 
 
十枚ヲ以ッテ
八銭トス
 
百二十五枚ヲ以テ一円ニ換ル
六十二枚ト二厘銭二枚ヲ以テ五十銭ニ換ル
三十一枚ト二厘銭壱枚ヲ以テ二十五銭ニ換ル
   但十二銭半六銭二厘五毛
  右の割合タルベシ 以下同断
二厘銭寛永通宝
 
 
 
 
十枚ヲ以ッテ
二銭トス
 
五百枚ヲ以テ一円ニ換ル
二百五十枚ヲ以テ五十銭ニ換ル
百二十五枚ヲ以テ二十五銭ニ換ル
青波銭ト唱ヘ
元四文銭ナリ
 
壱厘半銭文久永宝
 
 
 
 
十枚ヲ以ッテ
壱銭半トス
 
六百六十七枚ヲ以テ一円ニ換ル
三百三十四枚ヲ以テ五十銭ニ換ル
百六十七枚ヲ以テ二十五銭ニ換ル
波銭ニテ元
四文銭ナリ
 
壱厘銭寛永通宝
 
 
 
 
十枚ヲ以ッテ
壱銭トス
 
千枚ヲ以テ一円ニ換ル
五百枚ヲ以テ五十銭ニ換ル
二百五十枚ヲ以テ二十五銭ニ換ル
耳白銭或ハ其ノ外
トモ元壱文銭ナリ
 

 しかし、天保通宝は、一文銭や四文銭と比較して実価が低いとして不信感が持たれ、創鋳のとき金一両につき四貫文(四十枚)で金一両であったものが、安政年間には六十枚で一両に換算されるようになり、万延年間の鋳造以後は更に下落して百枚で一両となり、今回の規定では天保通宝一枚が八厘となった。
 そして、明治二十四年十二月三十一日を限りに通用が禁止されることになる。
・文久永宝(ぶんきゅうえいほう)
 江戸時代、文久三年(一八六三)に発行された銅の四文銭。当時通用していた寛永通宝四文銭より材質が劣り、明治四年十二月からは、一枚が一厘五毛、寛永通宝より五毛安と規定されている。
 しかし法的には、昭和二十八年まで通用が認められていたという。
・明治四年の新通貨
 この通貨は現代の我々にはなじみが薄く、発行当時も計算がややこしくて、一般にはあまり歓迎されず、まだ江戸時代の通貨を便利とする風潮が強かったようである。
 明治政府は、たとえば西郷札のような、私的に発行された紙幣の処分にも苦慮が重なり、明治十五年の日本銀行創設以後、ようやくにして近代国家としての通貨制度が整っていくことになる。