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1 慶応四年(一八六八)一月二十九日、勅命により、鎮撫使発向の御触れ

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今般
勅命の趣これ有り、当国鎮撫使発向ニ付き、
御猷□□として諸家より出勢これ有り候ニ付きては、村々のもの
共心得違ひ、がさつの義これ有り候ては不都合は勿論、其の筋へ
対し恐れ入り候義ニ付き、其の段深く相心得、弥(いよいよ)以って鎮静罷(まか)り
有るべく候。
右の通り相触れ候条、小前(こまえ)末々まで洩(も)れざる様申し聞かすべく候。
此の触書承知の旨、村名下請印令(うけいんせ)しめ、時付(ときづ)けを以って早々順達、
留(とま)り村より相返すべきもの也。
 辰正月廿九日
   高山御役所
 二月二日暁六ツ、阿多野より参り、早々相送り申し候。
 
〔解説〕
 この文書は、慶応四年(一八六八)一月二十九日に、高山御役所から各村々へ通達されたものの写しであるが、第二十五代飛騨郡代新見内膳は同年一月二十四日、新政府軍東山道鎮撫総督から任命された飛騨国鎮撫使竹澤寛三郎の入国が近いことを知って、すでに高山を脱出していた。
 従って、「高山御役所」の名によってこの触書を出したのは、地役人の筆頭富田礼彦の指図であったと思われる。
 触書の最初に「当国鎮撫使」とあるのは竹澤寛三郎のことである。
 
 語意
  ・小前(こまえ)=領民。一般の人々、庶民。
  ・時付(ときづけ)を以って=時刻をしっかり記録するよう指示している。