今般徳川家 朝敵と相成り、是(こ)れまで支配所の土地人民とも天朝へ召し上げられ候ニ付きては、万事勅命に依(よ)って御発向致され候。竹澤寛三郎様御下知ニ随ひ候様致すべし。尤(もっと)も鎮撫の御趣意ニ候へども、民人を騒擾(そうじょう)致され候義候はこれ無く候間、安堵(あんど)いたし家業出精致すべく候。但(ただ)し諸家御人数万一不法の義等これ有り、難渋(なんじゅう)いたし候ハゞ、御案内の地役人へ申し出次第、竹澤様へ申し立てるべく候間、其の旨相心得(う)べく候。
一、村々是れまでの制札取り外(はず)し置き、追って沙汰いたし候まで村々ニ預り置き申すべく候。
右の通り相心得、この廻状早々順達、村名下請印令(せ)しめ、留り村より相返すべきもの也。
辰二月朔日(ついたち)
高山御用場
二月三日夜七ツ半、阿多野より弐人参り、佐右衛門・与助私方泊り申し候。
〔解説〕
旧幕領(徳川家領地)の土地・人民とも天朝のものとなったことを宣言し、以後は鎮撫使竹澤寛三郎の命に従うよう触れ出している。
夜の七ツ半は現在の午前五時。阿多野村から日和田村までは徒歩でおよそ四時間の距離で、真冬の夜の雪道のことであったから、二人の使いは疲れ果ててそのまま原家に泊ったのであろう。
お触れの後に書き付けたこの一行は、何か、世の急変を生々しく伝えているようである。
この文書は旧幕時代の「高山御用場」の名で出されているが、二月三日に竹澤寛三郎が到着する前に、すでに竹澤の使者が高山陣屋へ入っていたのであろう。