当国の儀、従来平年夫食(ぶじき)不足の国柄ニ付き、凶荒の節凌ぎ方の備へいたし置き申さず候はでは相叶(かなわ)ず、是れまでもかねがね夫食囲(かこ)ひ方(かた)の儀仰せ渡しもこれ有り、即ニ先き程勧農方のもの惣代として御召し出し、以来貯穀の仕法、且(か)つ郷蔵場所等取り積もり申し立てべき旨御話これ有り候へども、惣代の者のみの取り計らひ方難(義)御座、依って当月上納の節出張居合の村役人中へ御相談申し候へども、是れまで治定仕らず候義ニ付き、後日延べ願ひいたし置き候。
然る処、当時御殿様御留主中ニ付き、夫食囲(かこ)ひ増(ぞう)の員数ハ御帰りの上ならでハ相知れ申さず候へども、御蔵場所の義はそれまでニ取り極め置き申し度く、尤も是(これ)れまでの通り数拾ヶ村の組合ニてハ、詰め替へ持ち運び等の雑費も相懸(かか)り候間、以来ハ大村(たいそん)ハ壱ヶ村立(だち)、小村(しょうそん)は最寄り二、三ヶ村又は兼帯組合ニて取り建て、その場所相応の籾(もみ)・稗(ひえ)・粟(あわ)等、年々大切ニ囲ひ増し、如何(いか)様の凶荒これ有り候とも、飯鍋の憂ひこれ無き様仕り度く候間、村々ニて御趣意の程有難く相心得、篤(とく)と御勘考の上、郷蔵取り建て場所の村方御取り極め、来ル十七日より廿日までニ郡中会所へ御立ち寄り成さるべく候。此の廻状御受け印の上、早々順達、留り村より御返し成さるべく候。以上
辰六月十日
郡中惣代
〔解説〕
梅村知事は任官早々、飛騨の国は「人余って食足らざる国柄」であることを憂い、かつ、幕府から朝廷方へ政権が交替するという変改にまぎれて、天保十一年(一八四〇)以降、いわゆる「百石五粒法」(後述)によって営々と貯穀に努めてきた郷蔵(三郡で十四か所)の囲籾(かこいもみ)およそ二万八千俵が、収納組村々によって勝手に運び出され、郷蔵がすべて空(から)になってしまっている実状をみて、これぞ愚民の成せるわざと大いに怒り、早急に飢饉用囲籾の貯穀方を郡中会所に命じた。
命を受けた郡中会所は、百石五粒法による郷蔵制度の欠点を改めて、大村は一か村ごとに、小村は二~三か村の組合ごとに貯穀倉を建てることを提案し、六月十七日から二十日までの間に、新しい貯穀蔵を建てる場所を決めて報告するよう廻状をまわした。
この時郡中会所は新しい貯穀蔵を従来通り「御蔵(おくら)」と呼んでいるが、高山県から出された他の文書は「凶備倉(きょうびそう)」の言葉を用いて、百石五粒法時代の「郷蔵」と区別している。
しかし、各村は新しく建てた貯穀蔵を昔通りに「郷蔵」と呼び、その習慣は平成の今日まで続いている。
ちなみに、新しい凶備倉は、明治二年二月に梅村騒動が発生したため、建築までに至らなかった村もかなり多かったと考えられる。
しかし、明治維新後、数年後に村の自主事業として共同の貯穀蔵を建てた村もあり、飛騨全体として梅村県政以後の貯穀蔵の数及び囲穀(籾・稗・粟・大豆等)の量等の把握はまだできていない。
参考までに、天保十一年豊田郡代によって創設された、いわゆる百石五粒法による囲籾の貯穀状況をまとめた表6-1-(6)-2(一三六頁)を添付してみる。
百石五粒法によって集められた金額は、三郡合わせて、一年に約八百両。第一年目はこの金を元にして高山町馬場に、高山町と灘郷十三か村で十間・四間の郷蔵を建て、三千六百二十八俵の囲籾を貯穀した。
籾一俵は籾五斗ずつ入れ、玄米にすると二斗五升分と換算された。
6-1-(6)-2 百石五粒法による囲籾蔵の建造と嘉永5年(1852)現在の囲籾高 |
囲籾蔵建造年 | 囲籾蔵所在地 | 囲籾高(俵) | 囲籾蔵建造組合 | |||
天保11 | 子 | 大野郡字馬場(高山) | 3,628俵 | 0695 | 高山町・灘郷村々組合 | |
(1840) | ||||||
天保12 | 丑 | 吉城郡古川町方 | 2,777俵 | 0184 | 吉城蔵収納村々組合 | |
(1841) | ||||||
天保14 | 卯 | 吉城郡舟津町村 | 3,084俵 | 0326 | 吉城郡高原郷村々組合 | |
(1843) | ||||||
弘化元 | 辰 | 益田郡湯之嶋村 | 2,425俵 | 2765 | 下呂郷・東西上田村組合 | |
(1844) | ||||||
弘化3 | 午 | 益田郡下原町村 | 2,372俵 | 1350 | 益田郡下原郷村々組合 | |
(1846) | ||||||
弘化4 | 未 | 大野郡小八賀郷町方村 | 2,441俵 | 2525 | 小八賀郷・大八賀郷組合 | |
(1847) | ||||||
嘉永元 | 申 | 大野郡川上郷山田村 | 2,464俵 | 7553 | 川上郷・三枝郷 | 組合 |
(1848) | 広瀬郷のうち5か村 | |||||
嘉永2 | 酉 | 吉城郡三日町村 | 2,536俵 | 7815 | 吉城郷上・中・下組18か村 | 組合 |
(1849) | 広瀬郷のうち3か村と宇津江村 | |||||
嘉永4 | 亥 | 益田郡阿多野郷大西村 | 1,897俵 | 2908 | 阿多野郷・河内郷・久々野郷組合 | |
(1851) | ||||||
嘉永4 | 亥 | 益田郡小坂町村 | 394俵 | 益田郡小坂郷組合 | ||
(1851) | ||||||
嘉永4 | 亥 | 益田郡上呂郷尾崎村 | 1,794俵 | 益田郡上呂郷尾崎村組合 | ||
(1851) | ||||||
嘉永4 | 亥 | 益田郡萩原町村 | 949俵 | 益田郡萩原町村組合 | ||
(1851) | ||||||
嘉永4 | 亥 | 益田郡竹原郷宮地村 | 1,057俵 | 益田郡竹原郷組合 | ||
(1851) | ||||||
嘉永5 | 子 | 益田郡馬瀬郷名丸村 | 706俵 | 益田郡馬瀬郷組合 | ||
(1852) | ||||||
合計 | 囲籾土蔵14か所 | 28,526俵 | 6121 |
註1 囲籾蔵の大きさは、嘉永2年(1849)の三日町蔵までは、10間×4間、戸前2つの土蔵であったが、 嘉永4年(1851)の大西蔵は5間×4間、戸前1つとなった。 註2 嘉永4年(1851)に建てられた大西蔵は「百石五粒法」によって配分された92両2分のほかに、 3郷村々から若干の持ち出しによって完成している。 註3 嘉永4年(1851)に、益田郡下原蔵の囲籾2,372俵のうち、1,158俵は新しくできた、 益田郡内の蔵へ移されている。 |