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7 慶応四年七月一日、梅村知事、広く施政に対する建言を求める布告

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   布告
太政(ダジョウ)御一新折柄、拙者不肖(フショウ)ノ身ヲ以ッテ大任(タイニン)ヲ蒙リ奉リ、入国以来寸功コレ無ク、実(マコト)ニ其ノ任ニ堪(タ)ヘズ日夜謇々(ケンケン)苦慮、寝食不安罷(マカ)リ在リ候処(トコロ)、図(ハカ)ラズモ格外ノ御抜擢(ゴバッタク)ニ預リ、重々恐縮致シ候。付テハ一入丹誠ヲ抽テ衆議(シュウギ)ヲ尽(ツク)シ、公論ヲ釆(ト)リ、旧害(キュウガイ)ヲ除キ、新利ヲ起(オコ)シ国民度存シ、兼々布告(フコク)ノ通り国益筋申シ立テ候様、又拙者不行届ノ廉(カド)ハ遠慮ナク存分ニ諫(イサ)メ呉(ク)レ候様頼ミ置キ候得共、皆々口ヲ閉ジ、更ニ一言ヲ発セズ。又拙者ノ申スコトハ唯々諾々(ダクダク)更ニ異義スルモノコレ無ク候。古語ニモ聖人ニ非(アラ)ザルヨリハ失(シツ)ナキモノコレ無シトアリ。又諸葛亮(ショカツリョウ)ノ如キ大賢(タイケン)モ諸事衆議ヲ釆(ト)リテ執(ト)リ行ヒシナリ。況(イハン)ヤ拙者ノ如キ凡庸(ボンヨウ)ノモノ一己(コ)ノ見込ミヲ以ッテ致シ候テハ、見込ミ違ヒノ事アルハ必定ニテ、甚ダ心モトナク候。畢意諸人ノ口ヲ閉ジ候ハ、拙者凡庸ノ材ニテ輔佐(ホサ)スルニ足(タ)ラズト思(オモ)フ哉、又ハ拙者ノ気ニ触(フ)レンコトヲ畏(オソ)レテ心服(シンプク)ハセザレドモ不得巳承服致シ居(ヲ)り候哉(ヤ)。又ハ関東(カントウ)未ダ平定ニ至ラザル処(トコロ)ヨリ、此ノ後如何相成リ候モ測リ難シト思ヒ、心両端ヲ抱キ居(ヲ)リ候哉。又ハ三年五年ノ支配人ノ命ニ従ヒ尽力(ジンリキ)スルモツマラヌコトゝ心得、傍観(ボウカン)シ候哉。又ハ太平ノ旧弊ニ泥(ナズ)ミ、御一新ノ御趣意ヲ了解(リョウカイ)セズ、今日ノ形勢ヲ十年前同様ニ心得、更ニ奮発(フンパツ)ノ心コレ無キ哉。又ハ当国ノ役人ハ従来治国ニ意(コゝロ)ヲ用ヒザルヤ。何分黙々打チ過ギ候テハ、自然ニ上下ノ情(ジョウ)隔絶(カクゼツ)シ、万民 御愛育(アイイク)ノ御聖意(セイイ)モ貫徴(カンチョウ)致シ兼ネ候間、役人ハ申ス迠(マデ)モコレ無ク、百姓町人タリトモ心付キ候事ハ遠慮(エンリョ)ナク存分ニ建言(ケンゲン)致スベク候。前件(ゼンケン)申ス如ク、聖人(セイジン)ニ非ザルヨリハ失(シツ)ナキモノコレ無キニ付キ、縦(タト)エ見込ミ違イノ事申シ出ルトモ、決シテ咎(トガ)メ等ハ致サズ候間、呉(クレ)々モ存分ニ建言致シ候様、深ク頼ミ入リ候。
  辰七月朔日
               梅村速水
 
〔解説〕
 有名な、高山県知事梅村速水が自ら不肖の身を懺悔(ざんげ)し、広く施政について建言(けんげん)を求めて公布した文章の全文である。
東山道鎮撫総督府から「当分飛騨国出役」を命じられて入国してから三か月半。梅村速水は、自分の政治理念がなかなか民衆の心へ入っていかないことにあせりを感じていた。
 梅村はその原因が自らの凡庸(ぼんよう)にあると言いながら、一方で、その原因は御一新の御趣意を了解しない役人や民衆にある、と指弾している。
 梅村知事のこのあせりともとれる性急な政治姿勢はその後も変わることがなく、やがて国内に反梅村派状況を強めていくことになる。