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8 慶応四年七月一日、梅村知事の勧農布告

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   布告
当国ハ山中瘠土(セキド)ニテ、夫食不足ノ割合ニハ人口甚ダ多ク、所謂(イハユル)、食足ラズ人余リアル国柄ニ付キ、格別農業出精致スベキハ当然ノ処、却ッテ他国ヨリ不精ニシテ、開クベキ土地ヲモ開カズ、耕作ニ心ヲ用ヒザルニヨリ、土民困窮(コンキュウ)ニ逼(セマ)リ候次第、畢竟(ヒッキョウ)天ニ悖(モト)リ以ッテノ外ノ事ニ候。皇政更始(コウシ)ノ折柄、富国ノ基礎(キソ)建テセラレ候御趣意ニ付キ、惰農ヲ励(バゲ)マシ地ノ利ヲ尽(ツク)シテ深山幽谷迄(ユウコクマデ)モ田畠トナシ、富国救民ノ策(ハカリゴト)相立チ度ク存ジ、誠実ニシテ農業出精ノ人材抜擢シ勧農方申シ付ケ、時々廻村致サセ候間、此ノ旨深ク相心得、是レヨリハ一入(ヒトシオ)出精致スベク候。格別出精ナル族(ヤカラ)ヘハ御褒美(ホウビ)下サレ、不精ニテ耕作ニオコタリ候者ハ取り調ベ咎(トガ)メ申シ付クベク候モノ也。
辰七月朔日
     梅村速水
           高山壱之町村
              矢島 善左衛門
           吉城郡角川村
              柏木 徳兵衛
           同  古川大野
              佐藤 彦左衛門
    勧農方    益田郡西上田村
              日下部 源右衛門
           同  羽根村
              都竹 九郎四郎
           大野郡花里村
              池之俣 源右衛門
           同 村
              山田 助右衛門
 
〔解説〕
 梅村知事の産業・興国政策の大綱は勧農局と商法局に集約されるが、この勧農方の布告は、飛騨国の民は他国に比べて不精であり、開かれるべき土地も開かれぬままに来ているとして、いよいよ耕地開拓に出精すべしと説いている。
 この文章が公布された時、すでに角川村の柏木徳兵衛ら六人が勧農方に登用されており、そのあとすぐ数名の「勧農方新田見立役」が任命され、新田の開発や用水工事が進められていった。
 中でも勧農方柏木徳兵衛のもとで新田見立役に起用された吉城郡広瀬郷名張村五郎左衛門は、益田郡萩原郷の羽根新田(約九町歩)の開発に携ったほか、地元の桜の名勝地桜野の古木を伐り倒して新田(約一・五町歩)を開発した話は有名である。
 しかし勧農方の新田開発は民意を無視してかなり強引に進められたと言われ、前記萩原町の羽根新田の一郭には梅村知事の頌徳碑が建てられているが、広瀬郷(現国府町)の桜野新田の開発にあたった名張村五郎左衛門は、明治二年(一八六九)三月十二日、いわゆる梅村騒動の煽(あお)りをくって、暴民のために、高山町郊外の桐生川原の刑場において石打ちの刑(私刑)にあって惨殺されるのである。