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10 慶応四年八月十一日、国産鉛・硝石の全てを商法局にて買い入れの通達

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当国産鉛・硝石とも、以来高山商法局へ買い入れ相成り候間、其の意を得、自侭(じまま)ニ他国へ売り出し候儀、決して致す間敷(まじ)く候。此の廻状村名下請印令(せ)しめ早々順達、留り村より相返すべきもの也。
 辰八月十一日
     高山御役所
 
〔解説〕
 梅村速水は入国早々、富国の財源として国産の鉛・硝石に注目していたと言われ、商法局創設と同時に、かねて鉛と硝石の売買によって財をなしていた若き逸材江馬弥平を商法局国産物掛に登用して、その方面の生産の奨励と買上げ、他国売り出しの任にあたらせた。
 この文書はまさしく、商法局による鉛と硝石の専売制を公達したものである。
 当時、鉛と硝石は銃弾・火薬の原料として需要度が高く、飛騨においては現在の白川村・高根町・河合町などが生産の拠点であった。
 梅村知事の期待に応える働きをみせた江馬弥平は、ほどなく国産物掛から商法局長に抜擢され、商法局が扱う専売品目も生糸・茶・漆・紙・菜種をはじめ、熊膽(くまのい)・熊皮・猪膽・鹿皮・薬草等へと大幅に拡大していった。
 しかし、商法局の隆盛は発足以来わずか七か月で出納総額十七万両に達したと言われる一方で、利益の激減、あるいは失職等に苦悩する人々が続出し、「国ヲ富(トマ)シ民ヲ救フ」という梅村知事の理想とは裏腹に、国内には梅村県政に反感を抱く者が次第に増えていった。
 ちなみに、商法局は国産物掛とは別に、局内にいくつかの締方(しまりかた)を設け、仕出し料理屋・菓子屋・一膳飯屋・煮売屋・汁粉屋等のほか、青物屋・酒屋・味噌醤油屋・蝋燭屋等にも運上(税)を課し、無許可の者の稼業を禁止した。
 このような商業統制は県民の日常生活に大きな影響を与えたのである。