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11 慶応四年七月、施薬院開設の布告

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   布告
一、今般施薬院(せやくいん)を開き、医薬を与へ、窮民の疾 病を救ひ候間、其の旨相心得、孤独極窮の民治療いたし兼(かね)候ものハ、監察役所へ願ひ出申すべきもの也。
  辰七月
          梅村速水
右の通り仰せ出され候間、其の意を得、村名下請印令しめ早々順達、留め村より相返すべきもの也。
  辰七月二十三日
         高山
           御役所
 
〔解説〕
 慶応四年六月二日に高山県が設置されると同時に、飛騨国権判事から高山県知事に昇格した梅村速水は、つぎつぎと新しい政策を打ち出していった。
 施薬院の設置は、養老金の貸与や窮民扶食米の放出などとともに梅村知事の善政の一つに数えられている。
 しかしこの政策は、施薬院の典薬(てんやく)に福井瑞泉を任命し、施薬所を高山町一之町内山屋忠右衛門宅に置いたと記録されているが、施薬の詳細を伝える記録はまだ発見されていないようである。