布告
一先般達し置き候通り、蓄穀ニ付き
高割 百石ニ付き 金三分宛
但シ 高は少クとも蒙富のものハ
志次第出金致すべき事
家割
上の分 金壱分宛
中の分 金弐朱宛
下の分 銭三百六拾文宛
右の通り割り合ひ候間、十二月十五日まで上納致すべく候。此の廻状下請印令しめ、早々順達、留り村より相返すべきもの也。
辰十月十七日
高山
御役所
十一月朔日参り申し候
〔解説〕
梅村知事の米穀政策のうち、最も有名な布告の一つである。
この布告によって郡中会所を通して上納された金額はおよそ二千両に達し、梅村知事は直ちに越中より蓄穀米の買い付けを命じたと言われている。
しかしこの通説はやや憶測の域を出ず、信頼に足る資料としては『萩原町史』の三二二頁に「蓄穀代金の取立て」として、益田郡の勧農方、羽根村九郎四郎の日記が掲載されている。
十一月三日 高山出張
先達て、蓄穀米美濃より買入れ方勘定取調べ、米百六十三石一斗。代金・駄賃・諸雑用とも、しめて金千七十両三分、永二百三十九文三分。
右、雑(ざつ)と取調べ。
米価が高騰していたとはいえ、ずいぶん高い値段の米である。
そもそも、梅村速水の米穀政策は、幕領時代百七十年余り続いてきた、高山町・古川町の人別買請米と南方山方買請米の廃止に関する史料は多く遺されているが、上納された年貢米や、この史料にかかわる蓄穀米がどのように処分されたのかよくわかっていない。
県民の人別米・山方米の放出願をかたくなに拒否した梅村知事が、それらの現米をどう処分したのか、大きな研究課題が残されている。