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南方山方山内取締差配人設置願

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6-1-(8)-1 日和田・原家文書(九)

恐れ乍ら願ひ上げ奉り候
            山方御山内取締諸事差配人
                猪鼻村
                  長九郎  印
                中之宿村
                  惣右衛門 印
                中洞村
                  弥右衛門 印
                下之向村
                  甚右衛門 印
                日影村 
                  佐兵衛  印
                池ヶ洞村 
                  武右衛門 印
                上ヶ洞村
                  七郎次  印
                大古井村 
                  次助   印
                阿多野郷村
                  磯右衛門 印
                野麦村 
                  善兵衛  印
                日和田村
                  六三郎  印
                小日和田村
                  市右衛門 印
右は山方御拵(やまがたおこしら)えの為御元伐稼ぎ御下知廿五ヶ村へ仰せ付けられ、一同有難く仕合せ ニ存じ奉り候。右 ニ付き、今般召し出され仰せ渡され候趣ハ、向後壱ヶ村 ニ壱人宛山方差配人相立て、村々より相応 ニ役料差し出し、万端取締り仕らせ候て、聊(いささ)か費ヶ間敷(ついえがましき)儀これ無き様仕るべき旨仰せ付けられ、承知畏(かしこ)み奉り、これに依り拾弐ヶ村一同熟談の上、右の者ども至極実躰成る者どもニて、御元伐方の儀も相弁(わきま)へ罷(まか)り在り候者どもニ付き、山方差配人相頼み候。勿論右拾弐人の者どもの村々より相応ニ役料差し遣し置き、木方御用筋ニおゐて御差(さ)し支(つか)えこれ無き様取り計(はから)はせ申すべく候。但又、己来(いらい)米金御渡し下され候節ハ、名主・与頭(くみかしら)並びに右の者ども罷り出、立ち会ひ請け取り奉り、勿論村々大小の百姓割り合ひの儀右の者ども立ち会ひ甲乙無く人別ニ割り渡し候て、村方におゐて故障ヶ間敷儀これ無き様仕るべく候。万一米金の儀ニ付き如何様(いかよう)の儀出来(しゅったい)仕り候とも
御上様へ御苦労ヶ間敷儀申し上げ間敷く候。之に依り、村々惣百姓一同連印の御証文差し上げ申す処、仍って件(くだん)の如し。
 寛政十年午三月       右拾弐ヶ村
                   惣百姓
                     連印
 高山
  御役所
 
〔解説〕
 公金の不正流用の罪を問われて郡代職を罷免された大原亀五郎の後任として、寛政二年(一七九〇)二月、第十四代飛騨郡代として高山陣屋に着任した飯塚常之亟は、年齢も若く、江戸城内で「切れ者」として老中松平定信の目にとまったと言われているだけあって、着任早々、かなり思い切った、大原騒動後の政治改革に乗り出した。
 飯塚郡代が行なった政治改革のうち、
  ○ 高山御役所の機構改革
  ○ 口留御番所の整理
  ○ 年貢の納め方の改革
  ○ 高山町人別買請米制度の改革
等はよく知られているが、飯塚郡代の頭を一番悩ませたのは、御用木元伐りを中心とする林政の改革であった。
 明和九年(一七七二)に休山(予算の打ち切り)となった御用木元伐りは、六年後の安永七年(一七七八)に再開されたものの、寛政四年(一七九二)から四年間再び休山となり、寛政八年(一七九六)に再開された時の予算は一時期の四分の一の「二〇〇〇両」に減額され、その上元伐りを許される村は阿多野郷のうちの二十五か村に限定された。
 その間に、御用木の元伐りを頼りに生きてきた村々は貧苦のどん底に落ち、杣株(御用木元伐りの仕事で入山して一人前の賃金をもらえる権利)や、山方米株(市価よりも安い値段で御年貢米の中から飯米の払い下げを受ける権利)を質に入れたり売却する者が続出した。
 たとえば、杣株を失った者は杣株を持っている杣頭の下について、日雇として働くことになるので、正規の賃金の何割かを杣頭に差し出さなければならない。
 逆に杣株や米株を数多く所有している杣頭(場合によっては村の有力者、高山の富裕商人)は手をこまねいていても、お金が入ってくることになる。
 飯塚郡代はそうした山方村々の実態を知って、杣頭の権力を弱め、杣株を廃止しようと考えて、元伐りの各村々に一人ずつ、「山方御山内取締諸事差配人」を置くことを命じた。
 
 ここに提示されている古文書一通は、まさにその山方差配人を置くため、村民総連判による願書の形をとって提出させた文書、そのものである。
 この文書には
 ① まず各村ごとに選出した山方差配人十二人の名前を書き出し、
 ② この十二人の者たちは、いずれも「至極実躰なる者」であると断り、
 ③ この差配人にはそれなりの役料を村から払うこと、
 ④ 幕府(高山御役所)からお渡しになる米金は、名主・組頭およびこの山方差配人が立ち会って、「甲乙なく人別に割り渡す」こと
が認められている。
 この文面の中には杣頭の文字はなく、内々、杣株を持っている者(杣頭~)の利益を排除しようとする深い意味が込められている。
 しかし、この飯塚郡代の改革は杣頭らの反対に合い、新しい山方差配人がどこまで活躍できたか。
 山方差配人の存在に唯一言及している『朝日村史』も、その点を不明とし、杣株・山方米株の廃止は、この寛政十年から五十年後の嘉永五年(一八五二)まで待たなければならなかったとしている。
 『久々野町史』は、杣株・山方買請米が消滅した史料として、万延元年(一八六〇)の「柳嶋村御買請米割合万帳」を載せ、この年から
 
   一米壱俵壱斗八升五合五勺三才
              百姓 源七郎  印
   一米壱俵壱斗八升五合五勺三才
              百姓 重兵衛  印
   一米壱俵壱斗八升五合五勺三才
              百姓 三九郎  印
   (中略四十人分)
   一米壱俵壱斗八升五合五勺三才
             孫七郎門屋
                ○右衛門  印
   一米壱俵壱斗八升五合五勺三才
             孫七郎門屋
                ○左衛門  印
     合家数四拾七軒
         内 百姓 四拾三軒
           門屋   四軒
     家壱軒ニ付き
       米壱俵壱斗八升五勺三才余
 
とし、柳島村では、本百姓と門屋百姓の区別なく、すべて一軒に「米壱俵一斗八升五合五勺三才ずつ」配分されたと記述している。
現在までのところ、ここに提示されている古文書史料を直接取り上げている町村史は見当らず、飯塚郡代の林政改革を追究する上で、極めて貴重な史料と言わなければならない。
ここに提示された史料をはさんで、その前後の関係史料が発見されれば、飛騨の林政史ないし南方元伐り村の歴史研究に大きな光がさすことになることは必定と思われる。
なお、この山方差配人は、元伐り二五か村から二五人選出されたので、この文書中の十二人は上ヶ洞組(旧高根村)の人たちで、現在の朝日町奥組から十三人の差配人を記したもう一通の願書が作成されていた、と思われる。