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[野麦峠御助小屋普請木伐出し御請証文]

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岐阜県歴史資料館・飛騨郡代高山陣屋文書1-55-116
 
〔本文〕
 
    差上げ申す一札の事
 
 一 栂 五本     目通り三尺廻り
 一 しらびそ 拾本  同 断
 一 樅 七本     目通り三尺廻りより四尺まで
 一 唐松 三本    同 三尺五寸廻り
 
右は野麦峠へ旅人御救ひとして、御役所ニ於いて御取立て相成り、高山町重助へ守方(まもりかた)仰せ付けられ候小屋場所御見分成され、夫々(それぞれ)御差図の趣(おもむき)承知奉り、右小屋入用元木本数前書の通り、山内御見分の上、御渡し下し置かれ、有難く存じ上げ奉り候。尤も、伐取りの節山見・村役人ども一同立合ひ、余慶(よけい)の立木伐取りの儀は勿論、神木等遣出仕らざる様精々心付くべき旨仰せ渡され、承知畏(かしこ)み奉り候。之に依り連印御請証文差上げ奉る処、件(くだん)の如し。
                 小屋守
 天保十二丑年七月            重助
                 野麦村
                   百姓代
                     市三郎 印
                 阿多野組
                   兼帯組頭
                    徳右衛門 印
                   名主
                     善十郎 印
                   山見
                     善七  印
   太田小六殿
   大池織右衛門殿
 
〔解説〕
 天保十二年(一八四一)七月、野麦峠御助け小屋を建てるために必要な元木(もとぎ・建築材)の伐出しを申請したところ、現地において山見・村役人立ち会いの上高山御役所御役人の見分が済み、伐出しの許可が出たので、その旨を認めて御役人宛に差出した御請証文である。
 目通り三尺から四尺といえば、かなり太い材がとれる。冬の積雪を考えてのことであろう。しかし、総本数は少なく二五本である。
 『高根村史』(昭和五九年発行)は、この野麦峠御助け小屋が天保十三年(一八四二)に完成し、大きさを五間に四間と記している。
 
 ちなみに、この証文の宛先となっている、太田小六は第二〇代飛騨郡代豊田藤之進の高山御役所詰手代、大池織右衛門は当時の山廻役の地役人の一人である。
 この御請証文は、宛先が高山御役所(代官・郡代)ではなく手代・地役人となっているためか、表現にやや丁寧さを欠き、元木伐出しの場所なども記されていない。