6-3-(1)-1 御役人方一宿内夫帳
この横帳一冊は、大野郡小八賀郷小木曽組兼帯名主次郎左衛門が責任者となって、正徳五年(一七一五)から七年間、高山御役所役人が山廻り検見や出水検分等のために廻村して一宿した時の、「賄ひ入用」(村の負担)の「覚」(記録)一四通をまとめたものである。
〔表紙〕
正徳五未之十月より
御役人方御一宿之節内夫(うちつかい)帳
小木曽村より
〔覚・本文〕
覚
未十月廿二日夕より廿三日朝迄
一 内夫(うちつかい)□人
一 薪壱〆(ひとしめ) 但、三尺縄
一 大こん弐本 汁のミ
一 明し松(あかし松)少し ともし物
〆
右は山廻り御検見(けみ)ニて、飯山新右衛門殿御出の節、当村ニ御一宿、賄(まかな)ひ入用ニ差出し申し候。尤も、右の外何ニても差出し申さず候。後日のため、仍(よ)って件(くだん)の如し。
十月廿三日
小木曽村五人頭
助市
同村与頭
市介
同村名主
次郎左衛門
右、御用ニ付き拙者ども罷(まか)り出(で)候節、当村ニ一宿、賄ひ入用ニ右の品請取(うけと)り申し候。以上
同日 飯山新右衛門 印
覚
十月廿三日夕より廿七日朝迄
一 内夫四人
一 薪四〆 但、三尺縄
一 大こん
いも 但、汁のミ
一 明し松半束 但、ともし物
文言右同断
未十月廿七日 小木曽村五人頭
四郎兵衛
同
介市
与頭
市介
名主
次郎左衛門
右書付文言、右同断
飯山新右衛門 印
註、二通目の日付「十月廿七日」は原文の通りである。この「覚」のままであると、二十二日の夕方から五日間泊ったことになる。廿七日は二十四日の誤りであるかもしれない。
覚
午三月四日夕より同五日朝迄
一 内夫 〆四人
一 薪四〆 但、三尺縄結び
一 ほしな 少し
牛房 少し 但、汁の実
一 燈松 少し
右は、小木曽谷山火事御検使御用ニ付き、小池伝蔵殿・小金新兵衛殿・飯山新右衛門殿・鈴木彦四郎殿御出の節、当村より御賄ひ入用、右の品出し申し候。此の外、何ニても出し申さず候。以上
午三月五日
小木曽村五人頭
介市
同村与頭
介作
同村名主
次郎左衛門 印
右、御用ニ付き我等ども罷り出候節、当村ニおゐて、右の品請取り申し候。後日のため仍って件の如し。
午三月五日
飯山新右衛門
鈴木彦四郎
小倉新兵衛
小池伝蔵 印
註、「午」は正徳四年である。なにかの都合で五年のあとに記されたのであろう。
覚
二月十五日夕より同十七日朝迄
一 内夫弐人
一 薪弐〆 但、三尺縄
一 汁実 但、大根
いも
一 燈松少し
右は、小木曽村正宗寺江湖興行ニ付き、小屋道具御渡し御用ニ小池伝蔵殿御越しの節、当村御逗留中賄ひ入用ニ、右の品差出し申し候。此の外入用何ニても御座無く候。以上
申二月十七日
小木曽村五人頭
助市 印
同村与頭
市助 印
同村名主
次郎左衛門 印
右御用、我等罷り出候節、当村ニ於(お)いて賄ひ入用、右の品受取り申し候。後日のため、判形仕り置き申し候。以上
小池伝蔵 印
註、江湖(ごうこ)=江湖会(ごうこえ)。禅宗、特に曹洞宗の寺院において、夏、四方の僧を招いて修行すること。この興行に、どんな道具を御役所が持って来たのか、その点は不明。
覚
四月十六日夕より廿一日朝迄
一 内夫壱人ツゝ
一 薪壱〆 ツゝ
一 汁のミ 牛房
□
一 明し松少し
右は、小八賀郷殿垣内・小木曽山論御検分のため、鈴木四兵衛殿・岩水彦右衛門殿御越し成され、坊方村御逗留中、右の品々差出し候。此の外何ニても出し申さず候。以上
申四月廿一日
小木曽村五人頭
四郎兵衛 印
同
助市 印
同与頭
市助 印
殿垣内五人頭
清六 印
同
孫六 印
与頭
四郎右衛門 印
右村々名主
次郎右衛門 印
右御用ニ我等共罷り出候節、坊方村ニ逗留致し、賄ひ入用右品々受取り候。後日のため、印形致し置き候。
鈴木四兵衛 印
岩水彦右衛門 印
註、山論が訴訟にまで発展すると、高山御役所の役人は当事者以外の村(ここでは坊方村)に逗留して双方の言い分を聞き、裁定を下した。しかし、役人の賄ひ入用は当然山論を起こした当事者(小木曽村と殿垣内村)が負担したのである。
覚
申四月廿四日夕より廿五日朝迄
一 内夫壱人
一 薪壱〆 但、三尺縄
一 うど 汁の実野菜
ぜんまい
一 明し松少し
右は、山廻り御用ニ、足立忠右衛門殿当村ニ御泊りの節、賄ひ入用ニ右品々差出し申し候。外ニ何ニても出し申さず候。後日のため、仍って件の如し。
申四月廿五日
小木曽村五人頭
源右衛門 印
与頭
市助 印
名主
次郎右衛門 印
右御用ニ罷り出候節、賄ひ入用、右品々受取り申し候。後日のため、我等判形致し置き候。以上
申四月廿五日
足立忠右衛門 印
覚
申九月八日夕より九日朝迄
一 内夫弐人
一 薪弐〆
一 汁の実 大こん
いも
一 燈松 少し
右は、山廻り御用ニ、小倉新兵衛殿・岩水勘助殿当村御泊り、賄御入用差出し申し候。此の外何ニても入用少しも御座無く候。以上
申九月九日
小木曽村五人頭
源右衛門 印
同与頭
市助 印
同名主
次郎左衛門 印
右御用ニ我等共罷り越し候節、賄ひ入用差出し右の品々受取り申し候。後日のため、判形致し置き申し候。以上
小倉新兵衛 印
岩水勘助 印
覚
享保三年
戌三月十四日より十五日迄
一 内夫壱人 但、一日壱人ツゝ
一 薪壱〆 但、三尺縄壱〆ツゝ
一 青な少し 但、汁のミ
うど 野さい
一 明松少し
右は、山廻り御用ニ山田喜三郎殿□□、当村ニ御一宿成され候節、御賄ひ入用右の品指出し申し候。此の外入用何ニても少しも御座無く候。以上
申三月十五日
小木曽村五人頭
善右衛門 印
与頭
伝七 印
名主
次郎左衛門 印
宿
右御用我等罷り出、当村ニ一宿致し候節、賄ひ入用右の品請取り申し候。後日のため、判形致し置き候。以上
山田喜三郎 印
註、この「覚」に署名している小木曽村名主次郎左衛門の肩書左に「宿」の文字が見える。記載がなくても、廻村御役人の宿は、特別な場合を除いて、名主の家が普通であった。
覚
十月十二日夕より十三日朝迄
一 内夫弐人
一 薪弐〆 但、三尺なわ
一 汁の実 但、青菜少し
いも
一 ともし油少し
右は、山廻り御用ニ、飯山次右衛門殿・小倉新兵衛殿御越しの節、当村御一宿成され、御賄ひ入用、右の品々指出し申し候。此の外入用少しも御座無く候。以上
戌十月十三日
小木曽村五人頭
五郎右衛門 印
同組頭
源七 印
同名主
次郎左衛門 印
右御用ニ我等共罷り越し、当村ニ一宿致し、賄ひ入用、右の品々請取り候。後日のため、判形致し置き候。以上
飯山新右衛門 印
小倉新兵衛 印
覚
亥ノ二月八日宵より同廿四日朝迄
一 内夫 壱人宛
一 薪壱〆 但、三尺縄
一 汁の実 ぞうな
一 燈物少し
右は、砂子瀬用水井ほた御普請の節御越し遊ばされ、右の品々出し申し候。尤、右の外何ニても一切出し申さず候。後日のため、名主・組頭・五人頭判形仕り候所、仍って件の如し。
二月
法力村五人頭
五郎右衛門 印
組頭
与右衛門 印
小木曽村名主
次郎左衛門 印
野崎平蔵 印
註、砂小瀬用水は、大谷村字砂小瀬で小八賀川から尊水し、下流の坊方村を潤していたが、大谷村・坊方村の対岸法力村(小木曽組の一村)では、対岸の大谷村から桶を架けて同用水の水を引いていた。
覚
三月二十七日夕より廿八日朝迄
一 内夫壱人
一 薪壱〆 但、三尺縄
一 青菜 但、汁のミ
牛房
一 あかし松少し
右は、山廻り御用ニ付き、大池平八殿御出の節、当村ニ御一宿成され、御賄ひ入用ニ右の通り指出し申し候。此の外何ニても入用の儀御座無く候。
亥三月廿八日
小木曽村五人頭
長三郎 印
同与頭
源七 印
同名主
次郎左衛門 印
右御用ニ付き、我等罷り越し候節、当村ニ一宿仕り、賄ひ入用ニ右の品請取り申し候。後日のため、判形仕り置き候。以上
大池平八 印
覚
亥七月廿四日の晩一泊り
一 内夫弐人
一 薪弐〆 但、三尺縄
一 汁の実 ささげ
なすび
一 とぼし松少し
右は、当亥七月十二日の洪水ニて所々破損の場所の見分として、飯嶋助右衛門殿・嶋田小兵衛殿罷り越され、則ち右の品々差出し申し候。尤も此の外ニ何ニても入用これ無く候。以上
亥七月廿五日
瓜田村五人頭
孫次郎 印
同断与頭
惣三郎 印
同断宿
彦左衛門 印
同断名主
次郎左衛門 印
右御用ニ付き、我等共罷り越し、一宿賄ひ入用、右の品々受取り候。以上
飯嶋助右衛門 印
嶋田小兵衛 印
註、洪水の被害に遭ったのは瓜田村地内であるが、小木曽村次郎左衛門は、瓜田・法力・殿垣内・小木曽・下坪五か村の兼帯名主であったので、この文書が次郎左衛門の家に遺ったのであろう。御役人の宿は瓜田村の彦左衛門の家である。
覚
亥八月十九日夕より廿日朝迄
一 内夫壱人
一 薪壱〆 但、三尺縄
一 なす
大こん
いもがら 但、汁のミ
一 燈松少し
右は、当八月十一日の出水ニ付き、御見分のため、大池平八殿御出で成され、当村ニ御一宿、其の賄入用ニ右の通り出し申し候。此の外何ニても入用御座無く候。以上
亥八月廿日
源七
介右衛門
次左衛門
右の通り請取り申し候。以上
大池平八 印
註 いもがら=ずいき。さといもの茎を干したもの。
覚
二月九日夕より同十三日朝迄
一 内夫 拾人
一 薪 壱〆ツゝ
一 野菜 牛房
大こん
ねぎ
一 あかし松 少しツゝ
右は細越村橋普請材木出し方御用ニ付き、小倉新兵衛殿・山内甚平殿御越し成され候節、当村ニ御逗留中御賄ひ入用、右の通り差出し申し候。此の外何ニても入用御座無く候。以上
二月十三日
宿
太郎兵衛 印
組頭
源七 印
名主
二郎左衛門 印
右の通り受取り申し候。以上
小倉新兵衛 印
山内甚平 印
覚
丒五月七日夕より同八日朝迄
一 内夫 壱人ツゝ
一 薪 壱〆 但、三尺縄
一 汁のミ うど
但、ぜんまい
一 燈あかし
右は、山廻り御用ニ付き、小池伝蔵殿・飯嶋助右衛門殿御越しの節、当村ニ御一宿成され、賄ひ入用右品々指出し申し候。此の外入用何ニても御座無く候。後日のため、仍って件の如し。
丒五月八日
小木曽村五人頭
与助 印
同村与頭
源七 印
同村名主
次郎左衛門 印
小池伝蔵殿
飯嶋助右衛門殿
御用ニ付き、我等共罷り出候節、賄ひ入用右品々受取り申し候。後日のため、判形致し置き候。
小池伝蔵 印
飯嶋助右衛門 印
〔解説〕
この横帳一冊にまとめられている十四通の「御役人方御一宿賄ひ入用・覚」には、すべて一宿の期日・廻村の目的・御役人の名前・村から提供した賄いの品々が、一定の形式を踏まえて記録されている。
そして、「賄ひ入用」の記録が正確であることを認めた村役人(五人頭・組頭・名主)が署名捺印したあと、さらに、賄いの品を受け取った御役人が、この記録に間違いがない旨、署名捺印している。
いわば、接待を受けた側の御役人が、賄いの領収書に署名捺印しているわけで、極めて珍しい史料であると言わなければならない。
しかし、この史料はそのことよりもむしろ、幕領飛騨における末端の政治がどのように行われていたか、そのことを具体的に物語る史料としての意義が大きい。
代官(郡代)の廻村や派検使の入国に関する史料は数多く遺されていて、各市町村史は通史編・史料編ともにかなりの頁数をさいてそのことの記述にあてている。
しかし、ここに提示されている「御役人方御一宿内夫帳」に登場する御役人はすべて地役人、いわば下級官僚である。
幕領飛騨の政治は薄給の地役人と高い教養と自治意識を身につけていた村役人たちによって支えられてきたと言われているが、この小冊子一冊は、そうした施政の一端を物語る史料であると言えよう。
いま、「覚」一四通の要点を拾ってみると、
①正徳5・10・22 山廻り検見 一人
②同 5・10・23 山廻り検見 一人
③同 4・3・4 山火事御検分 四人
④同 6・2・15 正宗寺江湖興行 一人
⑤同 6・4・20 殿垣内村 山論検分 二人
小木曽村
⑥同 6・4・24 山廻り御用 一人
⑦享保元・9・8 山廻り御用 一人
⑧同 3・3・14 山廻り御用 二人
⑨同 3・10・12 山廻り御用 一人
⑩同 4・2・8 砂小瀬用水普請検分 一人
⑪同 4・7・8 瓜田村洪水破損場所見分 二人
⑫同 4・8・19 出水見分 一人
⑬同 6・2・9 細越橋普請材木 二人
木出し方御用
⑭同 6・5・7 山廻り御用 二人
となる。
山廻り御用を除くと、山火事・興行・山論・用水普請・洪水破損場所検分等は、いわば村方からの申請による廻村であって、そのことは民政に対する御役所の対応が、かなりこと細やかなものであったことを物語っている。
一件一件の詳細な記録は遺っていないが、この史料は、今までの近世史の研究がややもすると幕法とそれに対する民衆の反応に視点を置いて進められてきたこと、たとえば検地と年貢、代官や巡見使の廻村等を重視してきた歴史に対する見直しを示唆していると言えるかもしれない。
ところで、この類の村入用帳はほとんどの場合二重帳簿になっている点に注意しなければならない。
すなわち、江戸時代も中期以降になると、いわゆる平百姓とか小前と呼ばれている農民たちの自意識が高まってきて、それまで一部の有力農民(名主層)の思うままになっていた村方入用(村民から集めて支出する村の費用)を巡って意見が対立し、頻繁に村方騒動や訴訟が起こるようになった。
そこで幕府は、村の費用が一部の者の利益のために不正に使われることがないよう、各村々に対して支出明細を一年ごとに「村入用帳」(入目帳(いりめ帳)とも言う)に記録して、所定の御役所へ提出することを義務づけた。
その施策には一定の効果はみられたものの、村入用の中には、公の文書に記載して御役所へ報告できるものとできないものとがある。
たとえば、この「御役人方御一宿内夫帳」に記載されている内容は、十四通共通して、内夫(うちつかい)(世話人)の数、薪、汁の実、燈し物の四項に限られていて、御役人の接待に付きもののお茶と菓子、たばこ、酒と肴、御飯などについては一切記載されていない。
これは、幕命によって、御役人の廻村時の賄いは自弁を原則とし、接待は木質宿(薪と燈火の代金を払って食事は自炊する)並とするよう定められていたからである。
しかし、世の中は法と定めだけによって動いているわけではない。
そのため必然的に、御役所へ提出する「村入用帳」と、実際の支出をそのまま記録した裏の帳簿と、いわゆる二重帳簿が当り前という時代が長く続くことになる。
裏の帳簿に記録される事項は、御役人の接待とは限らず、村三役の会合、高山までの出張、村寄合、祭り、法要等にかかる費用もあり、幕領時代後期になると御役所や主な御役人に対する盆・暮れの届け物も入ってくる。
しかし、二重帳簿と言っても、一冊にまとまった裏帳簿を遺している村はほとんど見当らず、わずかに遺されている名主の手控(てびかえ)のほか、「年貢納雑用帳」、「□□橋架替入用帳」、「御廻村雑用留」等々複数の史料に目を通すことによって、ようやく、江戸時代の村々がどんなことにどの程度村の費用を遣っていたか、その実態を知ることができるのである。
そういう意味からも、また、前にも述べたように、幕政の末端の政治のあり方、すなわち年貢の徴収を第一の目的としている御役所が、その地の民政の上で村々とどのようにかかわっていたか、また、兼帯名主の務めや村と村との政治的結びつき等の実態を知る上で、この「御役人方御一宿内夫帳」は、多面的に考察すべき貴重な史料である。