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[昔の旅年表]

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 『高山市史』(昭和二十七年発行)上巻七一一頁に「昔の旅(実例)」の項があるので、その抜粋を掲載する。
 
天明六年四月 二之町森世孚の富山旅行は越中西街道を籠に乗って通った、宿銭一人二百文払っている。
天明七年 高山森家(大坂屋)の雇人、江戸への旅は野麦峠越にて中山道下諏訪に出で、上諏訪より甲州街道を江戸に着いた。
 高山発・上ヶ洞・川浦・奈良井・上諏訪・台ヶ原・甲府・初狩野・吉野原・府中泊・江戸着(十日を要した)
寛政元年十月二十二日 幕府の勘定留役万年三左衛門・平山六左衛門高山にて御用済、本日高山発、東海道より江戸に帰った。十四日を要したのである。
 二十二日 萩原町・二十三日 下原村 ・ 二十四日 中川辺村・
 二十五日 小牧村・二十六日 池鯉鮒宿・二十七日 御油宿・
 二十八日 浜松宿・二十九日 日坂宿 ・ 晦日 府中宿・
 朔日 吉原宿・二日 箱根宿・三日 大磯宿・
 四日 川崎宿・五日 江戸着
寛政二年十二月九日 三島勘左衛門正英、江戸への旅は信州より甲府へ出た。
寛政十二年七月 郡代小出大助の着任の旅は、中山道を付知・益田郡廻りであった。荷物が多いので本馬七疋・人足三十七人を要した。
 【泊り】大宮・深谷・安中・沓懸・長久保・下諏訪・藪原・上ヶ松・馬込・付知・下呂・小坂・高山着・
  十二泊(先触)
享和二年二月 加藤歩蕭江戸への旅は往きに東海道を、復りは十一月日光参詣・中山道を野麦峠越で、高山に着いた。
文化八年三月 郡代田口五郎左衛門息助次郎、江戸への旅は、益田郡・付知廻りで中山道に出た。
(紙魚のやとり・しみのやどり)

文化八年八月 郡代榊原小兵衛赴任の旅は、大雨出水川支が多く、渚村にても渡船場川支小坂町村に四泊した。
嘉永五年七月二十一日 小野鶴次郎同鉄太郎兄弟江戸帰府の旅は野麦峠越にて中山道へ出た。
 若殿鶴次郎様鉄太郎様今朝五ッ半江戸表へ御歸府に付御見送に一同礼服に而罷出候事。
 但御案内の義町組頭罷出候趣一昨日申上置候処、昨夕御評議の上自分共同役に而相勤可申旨御沙汰に付矢島・
 屋貝両人御案内相勤候事。
 川上儀爲遠送り甲村御晝迄惣代に罷越候に付御蒸菓子一箱献上候事。(高山町年寄日記)
安政五年四月 郡代増田作右衛門手代小原喜一郎・川島奥六両人、江戸発高山への旅は四月中旬野麦峠の雪が消え、通行差支ないとの事を信州藪原宿で聞いて、益田郡廻りの予定を変更し阿多野口より高山に着いた。
 四日江戸発・九日藪原・十二日高山着(九日を要した)
安政五年四月 郡代増田作右衛門の手代森出集助、江戸より高山への旅は中山道を野麦峠越にて高山に着いた。
 七日江戸発・大宮・深谷・松井田・芦田・洗馬・寄合渡・黍生谷泊・十五日着(九日を要した)
安政五年四月 郡代増田作右衛門の手代進野礼太郎、大阪より高山への旅は伏見乗船にて、九日を要した。
 十三日大阪発・大津・愛知川・垂井・鵜沼・下市場・保井戸・小坂泊・二十一日着。
慶應四年三月 高山一之町舟坂幸二郎、江戸より高山帰着の旅は中山道を、松本に出で野麦峠越にて、十日半を要した。
 四日江戸発・熊谷・高崎・坂本・浦野・松本・入山・野麦・甲・十四日高山着(道中記)