ビューア該当ページ

[宿屋]

176 ~ 180 / 231ページ
 ※『高山市史』(昭和二十七年発行)上巻七六一頁より抜粋
 
他国より来た旅人の取締法は次のようになっていた。
 一、商人定宿 ‐ 逗留願を御役所へ出す、願書には、宿五人組々頭の加判を要する。町廻役人より焼印ある
  木札を旅人に渡す、帰る時にその木札を返させる。
 一、往来宿 ‐ 一夜泊(通懸)の旅人を泊める。宿屋では願帳に記載する、口番所通手形を宿屋より御役所へ
  願出、それに裏書印形してもらう。
 一、他国より来る旅人改様之事
  是は前々より商売に来定宿有之候者は其所へ参、則宿五人組与頭加判に而逗留之訴書指出、町廻役人より焼
  印札を渡旅人に相持、歸候時は札差上、通懸け一宿泊り等之旅人は、高山町に宿屋三軒有之此者方に罷在、
  此宿屋方より通手形相願、御役所に而裏書致印形差遣候。是又宿屋より訴帳に記之、尤宿屋へ参候旅人之内
  逗留致候商売人に而候得ば、焼印札相渡。致吟味紛者有之候得ば、焼印札所持無之故如此致来申候。
(飛州覚書)

寛政十一年八月 宿屋について、厳重の取締があったので、宿屋株を持つ二十人の者より、請書を御役所へ出した。此れに依ると、宿屋株は二十軒に定まって居り、内四軒は往来宿で、一夜泊の者或は四国修行者の類の宿屋であり、十六軒は商人宿で、商人・職人、古くより知って居る者の類の宿屋である。此の区別は確実に守って営業せねばならなかった。数年も他国より高山に入込、定住の寄望者があった場合、其者の国元へ行き、能く調べ親類・所の役人寺送り證文等を得て、其上住居願をしなければならなかった。川原者・旅芸者其外遊興ヶ間しい身分の者を逗留させてはならなかった事などがわかる。
    高山町宿屋取締方請書
 一、私共儀前々他国より入込候商人・諸職人並処用に而御当地へ罷越候節、入国御番所送り切手御口役銀納手
  形見届、以上に而日切宿請證文指上宿仕候、勿論逗留之内無作法之義無之、御法度之趣並御国法之儀は急度
  爲相守、且又出家侍の外は御焼印札申請、旅人腰に付させ徘徊爲致、尤逗留仕候者を無御訴、其日歸り之者
  へ申立御後闇儀仕間敷候。
 一、初而罷越も候の、商売躰の者又は風俗崩かたき異躰のものは、決而一夜の宿茂不仕、其段密に可申上候。
 一、旅人の内病気等差起り候節は、随分いたわり薬用爲致、難儀無之様取計申候。
 一、宿屋株二十軒の内四軒のもの其は、前々より往来宿に御座候処、行通に而一夜泊りの者或は回国修行者の
  類共改候上に而止宿爲致、外十六軒の分は商人職人知昔の外は決而宿不仕候。
 一、他国より数年来入込実躰成者に而、御当地に住居仕度段相頼候得者、其ものゝ国元へ罷越、篤と相糺、親
  類所役人寺送り等有之、其上住居御願申之候。
右之通り前々被仰渡候処、猶又此段改而〆り方被仰渡奉畏候、然上は随分入念相改逗留御願可申上候、殊に今般
御厳重の御触渡逸々承知仕候上は、別而不埒之儀無之様可仕候、万一宿屋の外に而隙宿等仕、怪敷儀茂有之候
はゞ、仲間の者申合内糺仕、早速御訴可申上候、勿論川原者・旅芸者其外遊興ヶ間敷身分の者他所へ通りかけ、
一夜の止宿者格別一日に而も堅逗留爲仕間敷候、将又御渡被置候御焼印札大切に仕、万一紛失仕候はゞ、御定の
過錢差上、其上何分之御吟味にも可被仰付候、惣而旅人之義に付不埒之義出来仕候はゞ、宿屋株被取放いか様の
越度にも可被仰付候、依之連印之御請證文差上け申処如件。
   寛政十一未年八月
             高山向町  南部屋 庄兵衛組
 当時相稼罷在候  往来宿      小林屋 次郎左衛門
             高山川原町 小鳥屋 長三郎組
          往来宿      平尾屋 八右衛門
 当時相稼罷在候
             高山川原町 小鳥屋 長三郎組
          往来宿      林屋  藤七
 寛政午より戌迄五ヶ年の間東川原町宿屋小右衛門方より
 宿株借り請当時相稼罷在候
             同所 同人組
          往来宿      かゝ屋 彦兵衛
 宝暦三酉年三之町森田屋源蔵方より
 宿株譲り請当時相稼罷在候
             高山一之町 石井屋 弥右衛門組
          商人宿      高桑屋 八蔵
 当時稼相休罷在候
             同所 同人組
          商人宿      石井屋 弥右衛門
 当時稼相休罷在候
             高山一之町 宇野屋 勘右衛門組
          商人宿      白川屋 源右衛門
 寛政十一未より辰迄十ヶ年之間同組益田屋吉兵衛より
 宿株借り請当時相稼罷在候
             高山二之町 長瀬屋  弥兵衛組
          商人宿      三ッ井屋 嘉兵衛
 当時稼相休罷在候
             高山二之町 米屋  次八郎組
          商人宿      かゝ屋 次郎兵衛
 当時稼相休罷在候
             高山一之町 打保屋 平右衛門組
          商人宿      加賀屋 佐助
 寛政十午年二之町丸屋平八より
宿株譲り請当時相稼罷在候
             高山西川原町 中村屋 治助組
          商人宿       庄村屋 武四郎
 当時相稼罷在候
             同町 同人組
          商人宿      川上屋 藤八
 当時稼相休罷在候
             高山三之町 滑川屋 長三郎組
          商人宿      中山屋 嘉右衛門
 当時稼罷在候譲り受候
             同町 同人組
          商人宿      住屋  五郎兵衛
 当時稼相休罷在候
             同町 同人組
          商人宿      杉本屋 惣助
 寛政九己年二之町紙屋徳兵衛方より
 宿株譲り請当時相稼罷在候
             同町 同人預り組
          商人宿      荒城屋 半十郎
 寛政九己年鉄砲町荒城屋七兵衛方より
 宿株譲り請当時相稼罷在候
             同所 同人預り組
          商人宿      川上屋 清六
 寛政九己年より戌迄六ヶ年之間片原町八木屋喜兵衛方より
 宿株借受当時相稼罷在候
             高山三之町 千虎屋 源七組
          商人宿      柚原屋 喜右衛門
 当時稼相休罷在候
             高山二之町 林 屋 利兵衛組
          商人宿      中垣屋 権兵衛
 寛政四子より酉迄十ヶ年の間三之町小鳥屋長次郎方より
 宿株借請当時相稼罷在候
             同所 米屋 次郎八組
          商人宿      笠井屋 吉兵衛
 此度宿屋稼仕度旨御願申上候処御聞済被下置難有奉存候
                         (高山市役所蔵文庫)
文化二年二月十七日 在々出入する者の泊る郷届を、高山町にて十軒に仰付られた。
 在々出入郷宿、高山町にて十軒へ被仰付候。(紙魚のやとり)
文化十四年正月二十二日 宿屋株、年季を定めて、借受、営業することが出来た。
天保二年七月十七日 高山東山白山神社の拝殿に盆修業者が多数寝泊りし。又廻国巡拝者を泊める報者宿が平内横町に出来たのは宜敷ないので、締方について御役所より厳しく注意があった。(高山町年寄日記)
天保四年七月六日 宿請のない他国旅人が逗留して居たので、取締るよら御役所より仰渡された。(高山町年寄日記)
天保四年七月 この頃村瀬屋孫兵衛、越中肴の負荷(ぼっか)宿をしていた。(角竹文庫記録)
天保十一年六月 往来宿四軒惣代蔦屋市助、商人宿十六軒惣代大谷屋源蔵・田近屋和助・角竹屋市助より、近頃宿屋稼外の者が旅人を泊め、或は茶商売の者が他国より連を伴い来て自宅に泊めるような者があるので、かゝる者のないよう、町中触渡し方を町年寄に願出た。(願書留)
天保十二年六月十六日 高山三之町村千虎屋源七の郷宿株を角竹屋市助に譲渡した。
 三之町村千虎屋源七より同村角竹屋市助へ郷宿株式譲渡一件に付、双方召連罷出候処、願之通御聞済、以来誠実に相勤候様被仰渡候事。(高山町年寄日記)
明治三年正月 明治維新になり、県より宿屋取締仰付られたについて、高山の宿屋稼者一同協議し、取締方を規定した。
 当時の宿屋稼人次の通り十四人であった。
【往来宿兼商人宿】楢谷屋清吉・林屋藤七・小島屋忠五郎・岩山屋勘右衛門。
【商人宿】大谷屋源蔵・加賀屋佐助・住屋長右衛門・小出屋又六・長瀬屋清助・谷屋市兵衛・近藤屋小三郎・
 住山屋長左衛門・中野屋平蔵・角竹屋市蔵。
明治八年五月二十三日 郷宿廃止の旨布達された。
 郷宿一同被廃候旨御達之事。(布告)
明治八年 本年中に高山の宿屋に宿泊の人数九百人以上の分次の通り。
   宿屋年内止宿九百人以上
 二千人   熊野弥兵衛 ・九百五十人  坂本金三郎
 千五百人  島倉新五郎 ・千人     野村文七郎
 三千五百人 角竹市蔵  ・二千五百人  宇野治助
 二千五百人 押上忠三郎 ・千七百五十人 荒川源平
 九百人   牧野伊兵衛 ・二千五百人  白木久兵衛
 二千二百人 川上文十郎 ・三千五百人  長瀬清作
 九百人   井上忠治郎 ・千五百人   三島久造
 千二百人  江黒安蔵  ・千二百人   山下茂右衛門
 千二百人  黒内たか  ・千八百人   杉下唯右衛門
 千二百人  日下部市兵衛・二千四百人  二木栄助
 四十五軒中九百人以上二十軒。(諸稼人名書上帳)