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[高山町旅行外国人宿泊関係文書(明治九年~同十七年)]

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高山市教育委員会所有

7-1-(3)-1 高山町旅行外国人宿泊関係文書
(大阪造幣局 ウヲルレム ガウランド氏の免許状控)

 この文書綴りは、明治九年~同十七年までの九年間に高山町に宿泊した外国人旅行者関係の文書をまとめたものである。ここでは、明治十年イギリス人二名、同十二年同国人二名、同十七年イタリヤ人一名の場合を提示する。いずれも目的は学術調査・研究である。
〔表紙〕
    自明治 九年
    至同 十七年
   宿泊人届
    旅行外国人止宿届
  丁第三三号  高山町
 
〔提示本文〕
一、明治十年七月
  英吉利人二名高山町止宿関係文書
 
① 御届書
        英吉利人
 大阪造幣局官仕  エドウソーデデイロン氏
   旅行免状三千四百三号
        同国人
 同   局官仕  ウヲルレムガーラント氏
   旅行免状三千四百四号
        附添人
          石川県下第十一大区小三十区三十番地
                          峠熊造
 
 右ノ英吉利人、昨十九日該高山町へ到着、長瀬清作方ニ止宿致サレ候ニ付キ、此ノ段御届ケ申シ上ゲ候。以上
                    高山町戸長
  明治十年七月廿日             石川勘蔵 印
 
 岐阜県権令小崎利準殿
 
 註 刻(がい)=この。この地方の。当地。
   長瀬清作=当時、高山町の有名旅館の主人。
   権令(ごんれい)=後の県知事にあたる。
 
② 第三千四百三号
    外国人免許状
 
 国籍      英吉利
 姓名      エドウソーデ・デイロン氏
 官仕      大阪造幣局
 寄留地名    大阪
 旅行趣意    土質風土査明
 旅行先及路筋  大阪ヨリ北陸道  中山道筋ヲ経テ、越後並ビニ信州エ相越シ東海道帰阪。
          但シ殊ニ寄ル、飛騨・近江・大和及ビ紀州ヘ巡廻。
 旅行期限    明治十年七月十五日ヨリ八月十五日迄
右ハ大蔵郷ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所ヘ通行ノ義差シ許シ候条、道筋故障無ク相通シ申スベキ事。
 
  明治十年六月三十日
        外務省
 
③ 第三千四百四号
    外国人旅行免許
 
 国籍      英吉利
 姓名      ウヲルレム・ガーラント氏
 官仕      大阪造幣局
 寄留地名    大阪
 旅行趣意    地質風土査明
 旅行先及路筋  大阪ヨリ北陸道、又中山道筋ヲ経テ、越後並ビニ信州ヘ相越シ東海道帰阪。
          但シ殊ニ寄ル、飛騨・近江・大和及ビ紀州巡廻。
 旅行期限    明治十年七月十五日ヨリ八月十五日迄
 
右ハ大蔵郷ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所ヘ通行ノ義差シ許シ候条、道筋故障無ク相通スベキ事。
 
  明治十年六月三十日
        外務省
 
④ (通達)
 
 大阪造幣局官仕 英吉利人
           エドウソウデ・デイロン氏
 同   局官使 同国人
           ウヲルレム・ガーラント氏
         付添人
           石川県下第十一大区小三区三拾番地
                        峠 熊造
 
右ハ今般該国地質風土査明ニ該国巡回コレ有リ候処、当廿日夜、八日市(町)駅止宿ニ相成リ候間、不都合ノ義コレ無キ様御注意成シ下サレ度ク、御依頼申シ上ゲ候也。
                    高山町
                      事務扱所
    国府村八日町組
       組長
       通運会社  御中
 
 註 該国(がいこく)=目標になっている国。ここでは、英国人が調査の目標にしている国、即ち飛騨の国。
 
⑤ (通達)
         英吉利人
 大阪造幣局官仕   エドウソウデテイロン氏
         同国人
           ウヲルレムガーラント氏
         付添人
           石川県下第十一大区小三区三十番地
                         峠熊造
 
右ハ今般地質風土査明ニ該国ヘ巡廻コレ有リ、御区内鎗ヶ嶽・乗鞍両嶽ヘモ登山成サレ度キ旨ニテ、止宿並ビニ案内人等不都合ノ義コレ無キ様、御注意コレ有リ度ク、此ノ段御報知申シ上ゲ候也。
 
                    高山町
  明治十年七月廿日             事務扱所
        神岡村
        上宝村
          正副戸長御中
 
〔解説〕
 いわゆる明治新政府は、富国強兵・殖産興業・文明開化を言葉に、欧米の進んだ産業・経済・学問・技術等を導入するために、多くの外国人学者・技術者等の招聘(しょうへい)に力を注いだ。
 札幌農学校のクラーク博士、富岡製糸場のブリュナ、木曽三川工事のデーケなどは有名であるが、そのころ、印刷技術発展のために大阪造幣局ではイギリス人技術者を御雇外人として招いていた。
 そのうち、明治十年七月に、エドウンデ・デイロン、ウヲルシム・ガラーランドの二人が、地質風土査明(調査)のため、現在の新潟県・長野県を経て飛騨地方へ入り、近江・大和・紀州を廻って帰阪した。
 明治十年(一八七七)は、ちょうど、東京大学で動物学を講義していたアメリカ人モースが、有名な大森貝塚を発見発掘した年である。
 このころ招聘されて日本へ来た外国人学者・技術者の中には、ちょうど幕末のドイツ人医師シーボルトがそうであったように、自分の専門分野のほかにも、広く異国の歴史・心理・民俗等に関心を持つ人たちが多かったのではあるまいか。
 同時に、そのころすでに、日本へ来た外国人の間に飛騨という国、飛騨の大自然・山岳の存在が知られていたことに驚きを覚える。
 史料の①は、高山町戸長から、イギリス人二名が七月十九日、高山の長瀬清方(当時高山町で最も大きな旅館)に止宿したことを、岐阜県権令(知事)に報告した文書。史料②・③は、外務省が前記イギリス人二名に与えた「外国人旅行許状」の写し。④は高山町事務扱所から吉城郡国府村八日町組と通運会社宛に、前記イギリス人二名の止宿を依頼した文書。⑤は同じように、神岡村・上宝村の正副戸長あてに、イギリス人二名の止宿と同時に鎗ヶ嶽・乗鞍嶽の登山案内を願う旨、通達している。
 イギリス人技術者テイロン、ガーランド両氏が、実際に鎗ヶ嶽・乗鞍嶽に登ったかどうかはよくわからない。
 
   外国人旅行免状
 国籍     英吉利
 姓名     エドワウド・ダ井ブルス
 官仕     工部省
 寄留地名   東京
 旅行趣意   学術研究
 旅行先及路筋 東京より高崎・松本・飛騨山・富山
        高山中仙道・富士川近傍東海道帰京
 残り期限   十二年七月八日より三十日間
 
右ハ、工部大輔ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所ヘ旅行ノ義差シ許シ候条、道筋故障無ク相通シ申スベキ事。
 
 明治十二年七月八日
 
二、明治十二年七月
  英国人二名 高山町止宿関係文書
 
① 御届
          英国人
            マーセヤル
          同
            ダーヘルス
 
右ノ者、私方ニ止宿仕リ候ニ付キ、此ノ段御届け申シ上ゲ候。以上
 
                   旅人宿
 明治十二年七月二十六日         長瀬重兵衛 印
 
    戸長役場御中
 
② 届書
 工部省官仕 英国人 エドワウド・ダ井ブルス
 同     同   ダビット・ヘンリー・マーシャル
 
右両名今般別紙免状ノ通リ該地通行ニ付キ、今廿六日、長瀬重兵衛方ヘ止宿ニ相成リ候間、此ノ段御届ケ申シ上ゲ候。
 
                   高山町
 明治十二年七月廿六日          戸長 石川勘蔵
   大野
岐阜県益田郡長 大槻平美殿
   吉城
 
 註 大槻平美(ひらよし)=明治九年初代高山支庁長
 
③ 外国人旅行免状
 
 国籍      英吉利
 姓名      エドワウド・ダ井ブルス
 官仕      工部省
 寄留地名    東京
 旅行趣意    学術研究
 旅行先及路筋  東京より高崎・松本・飛騨山・富山
         高山・中仙道・富士川近傍・東海道帰京
 残り期限    十二年七月八日ヨリ三十日間
 
右ハ工部大輔ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所旅行ノ義差シ許シ候条、道筋故障無ク相通シ申スベキ事。
 
  明治十二年七月八日
      外務省御判
 
④ 外国人旅行免許
 
 国籍      英吉利
 姓名      ダビット・ヘンリー・マーシャル
 官仕      工部省
 寄留地名    東京
 旅行趣意    学術研究
 旅行先及路筋  東京より高崎・松本・飛騨山・富山
         高山・中仙道・富士川近傍・東海道帰京
 残り期限    十二年七月八日ヨリ三十日間
 
右ハ工部大輔(だいすけ)ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所ヘ旅行ノ義差シ許シ候条、道筋故障無ク相通シ申スベキ事。
 
  明治十二年七月八日
     外務省御判
 
〔解説〕
 英国人エドワウド・ダ井ブル、デビット・ヘンリー・マーシャルの二人は、ともに東京の工部省御雇外国人技術者であるが、その専門分野は不明である。
 工部省は明治四年明治新政府内に置かれた行政機関で、鉱山・造船・鉄道・電信・灯台などのほか、機械製作・化学工場などを管轄したが、やがて官営事業が民間に譲渡されていき、明治十八年に廃止された。
 外国人御雇教師(学者・技術者)の数は、最盛期には二百数十人に達したと言われ、その大半が工部省に属していた。
 前記二人の英国人は、いわば中部山岳地帯から富士山近くを旅したらしいが、旅行免状は当地方を「飛騨山」と記している。
 
三、明治十七年六月
  伊太利人二名(一名通弁)高山町止宿関係文書
 
① 届書
               伊太利
                エドアルド・メレガレ氏
                 外通弁 一名
 
右ハ、今般学術研究ノ為、当国ニ相見ヘ候ニ付キ、当十九日拙者方ヘ止宿ニ相成リ候所、此ノ段御届ケ申シ上ゲ候也。
 
  明治十七年              谷田嘉六 印
    申六月十九日
 
 高山町
   戸長役場御中
 
② 届書
               伊太利国
                 エドアルド・メレガリ氏
 
右ハ、今般学術研究ノ為、昨十九日当所□□町谷田嘉介方ヘ止宿ニ相成リ候間、通行免状写相添ヘ、此ノ段御届ケ申シ候也。
                   高山町
  明治十七年六月廿日          戸長 石川勘蔵
 
  (宛名なし)
 
③ 第一万千三百六十一号
    外国人旅行免状
 
 国籍     伊太利
 姓名     エドアルド・メンガリ氏
 身分     (イタリヤ語)
 寄留地名   (記載なし)
 旅行趣意   学術研究
 旅行先路筋  武蔵・甲斐・信濃・飛騨
        越中・美濃・近江・摂津及ビ山城ヘ
 旅行期限   明治十七年五月廿一日ヨリ二ヶ月間
 
右ハ、伊国代理公使ノ保証ヲ以テ、前書掲載ノ場所ヘ旅行致シ度キ旨申シ立テ差シ許シ候条、道筋故障無ク相通シ申スベキ事。
 
  明治十七年五月廿一日
         外務省
 
〔解説〕
 イタリヤ人エドアルド・メンガリは、同国代理公使の保証によって外務省から旅行免状を受けているので、イタリヤ公使館勤めの人物であったと思われる。
 旅行期限は二ヶ月間と長期間にわたるが、山城(京都)からの帰路は記載されていない。
 しかし、公使館員が、いわゆる名所旧跡ではなく、本州の中央山地を長期間旅することには、何か特別の目的があったのであろう。
 
四、明治九年一月より同年七月十五日迄
  高山町旅人宿止宿旅客人数届
 
① 明治九年一月より五月三十一日迄
 ・弐百九十九人    舟坂徳兵衛
 ・八百四十一人    川上又十郎
 ・千弐百六十七人   二木栄助
 ・四百四十三人    小嶋恵五郎
 ・百弐十二人     舟渡小右衛門
 ・三百八十五人    日下部市兵衛
四月より
 ・十七人       山下茂左衛門
 ・七拾弐人      川上与次兵衛
 ・千百十三人     江黒安蔵
 ・五十八人      二村九郎左衛門
四月より
 ・弐十六人      吉村助八
 ・五十九人      山口与三郎
 ・百九人       住清助
 ・千六十人      杉下只右衛門
 ・千四人       押上忠三郎
 ・千三百七十四人   角竹市蔵
 ・三百七十五人    牧野伊兵衛
 ・百七十九人     井上忠太郎
 ・千六百七十三人   島倉新五郎
 ・二十三人      住長右衛門
 ・百十一人      八賀七兵衛
四月より
 ・五人        菅田藤五郎
 ・百弐十六人     灘庄兵衛
 ・四十三人      上木甚右衛門
 ・千四百二十一人   熊野弥兵衛
 ・七百弐十五人    松嶋源四郎
 ・五百弐十六人    坂本金三郎
 ・三十五人      小出集造
 ・千百三十三人    白木久兵衛
 ・九百三十人     三嶋久造
 ・百六十六人     河野長助
 ・三千五百六十四人  長瀬清作
 ・四百十人      野村文七郎
 ・六百四十二人    宇野治助
 ・弐百九十六人    三輪藤七
 ・百弐人       小島所左衛門
 ・百八十四人     大野代助
三月廿二日より
 ・十人        大井善四郎
 ・百七十壱人     古橋忠蔵
 ・千弐百三十六人   荒川源平
 ・五百三十七人    □□たか
 ・三十六人      なら岡清吉
  〆 四十三名
 
② 明治九年六月十六日より廿日迄
     記
   □□自十六日、廿日迄
  一止泊人六百五拾四人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止泊相成り候分、御規則の通り取調べ置き候処、書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し上げ候。以上
                     宿屋取締世話役
  明治九年六月廿日             荒川源平 印
 
    正副戸長御中
 
③ 明治九年六月廿一日より廿五日迄
     記
 本日廿一日より廿五日迄
  一 止泊人五百七十四人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止宿相成り候分、御規則の通り取調べ置き候所書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し候。以上
 
  明治九年六月廿五日          宿屋取締世話役 印
 
    正副戸長御衆中
 
④ 明治九年六月廿六日より三十日迄
    記
 本日廿六日より同三十日迄
  一止泊人五百人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止宿相成り候分、御規則の通り取調べ置き候所書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し候。以上
 
   明治九年六月三十日         宿取締役 印
 
    正副戸長御衆中
 
⑤ 明治九年七月一日より五日迄
    記
 七月一日より同五日迄
  一止泊人六百三十六人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止宿相成り候分、御規則の通り取調べ候所書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し候。以上
 
   明治九年七月五日          宿屋取締世話役 印
 
  正副戸長御衆中
 
⑥ 明治九年七月六日より十日迄
    記
 一止泊人六百七十九人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止宿相成り候分、御規則の通り取調べ置き候所書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し候。以上
 
  明治九年七月十日           宿屋取締世話役 印
 
   正副戸長御衆中
 
⑦ 明治九年七月十一日より十五日迄
     記
 七月十一日より十五日迄
  一止泊人七百十人
 右は当市中宿屋同業方、日々旅客止宿相成り候分、御規則の通り取調べ置き候所書面の通り相違御座無く候間、此の期惣計書き上げ申し候。以上
 
  明治九年七月十五日          宿屋取締世話役 印
 
   正副戸長御衆中
〔解説〕
 『高山市史』(昭和二十七年発行)によると、寛政十一年(一七九九)ころ、高山町には往来宿が四軒、商人宿が一六軒あって、それぞれ宿屋株を持っていて、明治の初めまでその数は変わらなかった。
 往来宿というのは、寺社参詣や私の用などで高山町を通る一夜泊りの客を泊める宿で、商人宿というのは、商いや職人など長逗留の人たちを泊める宿である。
 寛政年中に往来宿がわずか四軒に対して、商人宿が一六軒もあったということは、当時の高山町が商業の町として、国外との交易がかなり盛んであったことを意味している。
 他の史料によると、このころ、美濃方面の木綿売り、奈良の筆墨売り、美濃・尾張の瀬戸物売りなど盛んに飛騨へ来ており、中には九州長崎あたりの薬売りなども高山へ来ている。
 ところが、この宿屋株は、年代ははっきりしないが、明治五、六年ころ廃止されたらしく、高山町の宿屋の数は四三軒と急増している。
 この四三軒の中には、同年三月から宿屋稼ぎを始めた者が一人、同じく四月から始めた者が三人入っており、高山町に宿屋が急増した様子をうかがわせる。
 ただ、江戸時代には、宿屋株を持たない煮売り屋などが、二人か三人ほど、旅人をこっそり泊めていたとも言われているから、宿屋の数が急増した裏には、それだけの素地があったと考えることができよう。
 ここに示した史料①~⑦(下巻一八七~一九〇頁)によると、明治九年一月からの六ヵ月半、約二〇〇日間に二二九〇八人、一日平均一一五人という、極めて多勢の旅人が高山町に宿泊している。
 ただし、この人数は延人数であり、同一人が同じ宿に三日間泊まれば三人と数えられ、妻子・家来などもそれぞれに勘定されている。
 それにしても、明治九年一月からの五ヵ月間に、長瀬清作(江戸時代から続く老舗旅館)では三五六四人を泊めている。一日平均二五人と驚くべき人数である。
 言うまでもなく、宿屋の繁栄は、高山町ひいては飛騨の発展と大きくかかわっており、その歴史を考察することの意義は大きい。