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一、医師大谷玉林の出自

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 大谷玉林は、宝暦十二年(一七六二)大野郡小八賀郷小木曽村次郎左衛門家(以下大谷家と記す)に生まれ、幼名を源一郎といい、成人して清五郎と称した。
 大谷家の歴史は古く、その祖は代々小木曽村を中心とする周辺数カ村をたばねる兼帯肝煎(きもいり)・名主を勤める富農であった。
 父は大谷佐十郎。母は津ねと言い、津ねの父は安永大原騒動(一七七三)の時獄門刑に処せられた小八賀郷町方村伊兵衛である。
 伊兵衛はもともと吉城郡吉城郷半田村市兵衛家から出た人で、高山陣屋へ出入りを許されたことがあるほどの名医で、鉱山師としても広くその名が知られていた。
 半田村市兵衛家も代々医者と神官を兼ねる吉城郡きっての豪農で、同家出身の人物には、町方村伊兵衛の甥で、桑の木の改良や気象の記録等で有名な大萱村(おおがや)横山六兵衛がある。
 そうした優れた人的環境の中で育った大谷清五郎は、寛政二年(一七九〇)二十八歳の時、突如医師を志して名古屋へ出、高名な医師渡辺玄二について三年間医学を修業し、大谷玄周の名を授けられて帰郷、高山町で医師を開業した。
 玄周は俳諧をよくし、玉林と号した。四国八十八カ所霊場順礼にあたって「大谷玉林」の名を用いたのは、四国遍路の志が俳人玉林の心境に発しているからかもしれない。
 ちなみに、清五郎の突然の出郷は、天明大原騒動(一七八七~八九)の時、彼自身、何回か郡中の飛脚として江戸へ赴いた体験と無関係ではないように思われる。