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(1)人馬問屋

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 ※『高山市史』(昭和二十七年発行)上巻七二一頁より抜粋
 
寛永頃の飛騨古絵図によると、次の三街道に馬次場・牛次場を示してある。
後の宿場(人馬問屋)と同じような交通上の機能を持つものであろう。
【益田街道】高山城‐久々野村(馬次)‐渚村(馬次)‐萩原(馬次)‐湯之島村(馬次)‐下原村(馬次)
【越中街道】八日町(馬次)‐山田‐舟津町‐東漆山(牛次)
【信州街道】甲村(馬次)‐黍谷村(馬次)‐小日和田村(牛次)
 外に小豆沢村・上ヶ洞村・大原村にも牛次の記入がある。
飛騨の交通に金森時代から、馬次と共に牛次があった。
寛政元年十月 高山人馬問居小林屋甚九郎の記録に依る役馬場処とその頭数次の通り。
  石浦村  馬五疋  片野村  馬三疋
  千島村  同一疋  花里村  同二疋
  西ノ一色村 同二疋 上岡本村 同三疋
  下岡本村 同三疋  七日町村 同一疋
  桐生村  同二疋  本母村  同一疋
  冬頭村  同二疋  江名子村 同五疋
  町方村  馬五疋  松之木村 馬二疋
  三福寺村 同四疋  松本村  同一疋
 右之通村数十六ヶ村・馬高四十二疋也
 これを灘郷伝馬組十六ヶ村という。高山御役所前にある人馬問屋へ、必要に應して人馬や籠を供給する組合である。人馬問屋を伝馬会所ともいった。高山に人馬問屋を設けた最初の年代がわからないが、昭和元年には長右衛門より小林屋甚九郎に引ついたことが、前記の文書でわかる。
寛政四年二月 郡代飯塚常之丞の手代真中林蔵、益田街道から(付知経由)中山道に出て江戸へ旅行した。飛騨の内には高山・久々野・小坂・萩原・下呂の五問屋があり、乗政は村名主扱、申込に応して人足と馬(軽尻)を出している。軽尻とは本馬に対する称で、荷物五貫匁以下の場合をいうのである。
             飯塚常之丞 手代 真中林蔵
 
 
7-3-(1)-1 人馬駄賃帳表示
(問屋)人足人足賃軽尻軽尻賃 
高山・甚九郎二人二〇〇文一疋一七二文久々野迄
久々野・惣兵衛二 二一八 一 一八八 小坂迄
小坂・忠兵衛二 一三〇 一 一一六 萩原迄
萩原・熊崎彦次郎二  八四一  七七下呂迄
下呂・(宿と記す)二  八四一  七七乗政迄
乗政村名主二 二一八 一 一九二 付知迄
付知村庄屋  一  七二田瀨迄

寛政四年四月 郡代飯塚常之丞の手代眞中林蔵、阿多野街道から(野麦峠越)中山道藪原宿に出て、江戸へ旅行した。阿多野街道の甲・中之宿・野麦の三問屋で、人足三人つゝを雇入れた。
文化年間 郡代芝与市右衛門の手代、安西惣助越中富山への旅には、問屋又は村名主より軽尻(馬五貫目以下の荷)一匹を雇った。
江戸時代 (年号不明)三輪茂三郎江戸への旅は野麦峠越で中山道へ出た。
各問屋で軽尻一疋・人足四人雇入れた。
年号不明 高山三之町杉崎屋甚右衛門、美濃川辺行の旅は各宿場にて人足三人宿駕籠を雇った。
文政十年十月十七日 高山西川原町人馬問屋に宿駕籠の置場を増設したいと願出、許可があった。
 一、二之町之内西川原町川裾屋忠右衛門組下問屋場北之方東角
  三尺に二間の処拝借奉願上、宿駕籠の置場にいたし、則問屋
  場に仕、取繕申度奉願候処、右の場所絵図可奉差上旨被仰付
  則絵図引奉差上候事。
                     (高山町年寄日記)
天保二年 益田街道馬次場、湯之島・下原間の距離長遠であるので、保井戸を仲継場とした。
明治元年六月二十七日 飛脚会所を高山二之町白川屋弥平に命じた。(御廻状御請印帳)