武豊町の名稱と發展の概要

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武豊本町通り

 武豊町は明治11年12月28日長尾大足兩村の合併によつて、武豊村として産聲をあげたのである。それから約13ケ年、本町の進展は實に目ざましく、明治24年1月14日、町制を施行して、こゝに記念すべき60週年を迎える事は、町民として誠に喜ぶべき事である。明治21年4月17日、市町村制の公布があつて政府は新たなる自治制度の完全な遂行を期し、且つ町村將來の發展を圖るため、これに附随して大規模の町村合併を決行した。即ち本町は此の第一回の町村合併により、町名を戴くことになつたのである。
 明冶19年、當地は其の海が海岸より注ぐ矢作の水流に影響されて、水深く風向亦順にして荷役に便に、天然の良港たる諸條件を具備するが故に開港場の指定をうけ、武豊線の開通と相俟つて中部日本の門戸となり第二の横濱港と目されるに至つた。
 ※明治20年3月23日、畏くも明治天皇、昭憲皇太后陛下御同列にて、當地に行幸啓ありて陸海對抗運動を御覽になり、超えて※23年2月29日陸海軍特別大演習に際し再び行幸の事があつた。其の當時本町の名は天下に喧傳せられ、明けてこゝに町の誕生を見たのである。
 斯くて町勢は頓に伸展して大いに其の將來を期待され、武豊線の敷設等によつて知多郡の交通の中心地となり、市街の經營は港として設計され、七間の大道路が柳の並木に一層町の美觀を呈していたのであるが、木曾川の土砂によつて建設困難視されていた名古屋港が完成したため折角發展の緖をみた本町も其の後、後背地の商工業の發展の裏付けがなく其の進展は或る程度世評を裏切るものがあつて、大名古屋市に其の大部分を吸収された。本町の地勢があまりにも惠まれなかつた事は、甚だ遺憾の事と考えられる。そして一時は折角の柳並木も寂蓼の姿を呈していた。
 然し近年に至り醸造業の發展と相俟つて日本油脂、シェル石油、山二産業、愛知陶業、東京麻糸其他各種の工塲、知多地方事務所、蠶糸試験塲等が相次いで設立せられ、再び町勢の發展を見るようになつた。特に昭和12年度より、國庫の補助金を得て築港工事の大改修に着手し、之が完成の暁には一段の飛躍を期待されているのである。(殊に終戰後に於ては此の工事に一段と力を入れ、現在なお建設工事に余念ないことは、後ほどに記す)特に武豊をして今日の生命あらしめたのは何といつても、武豊線の設置となつたことであらう。故人南枝技師の話によれば「東海道線の敷設に要する資材運輸のために、ドロツク線を設けたことであつて、この貨物は本町の北部工事に要する資材を輸送するのであつたが、刈谷熱田間の停車塲の位置が予定を變更せねばならぬ事情が生じた。初めの設計によれば水主池あたりに設けられる筈であつたが、これを改め大高としたから大高刈谷間があまりに隔ちすぎることゝなつたので、そこで大府に於けるドロツク線の終点に停車場を置くことになり、このため一時的のドロツク線は永久の敷設となつた」と本町にとつては誠に有難いことであつたのである。今日、中學校高台より眺めれば、煙突は林立し、工塲の盛大を誇ると共に、朝夕に賑う從業員の乘降は實に今後の武豊の發展に新らしい希望を抱かせてくれるのである。
 以上武豊發展の概要について述べたのであるが、然らば武豊という名は如何にして付けられたかについて、簡單に記したいと思う。
 「長尾」は長尾(たけを)天神の名によつて呼ばれたもので、この村に「石田(いわた)」という家があつて、山城國から移住したと傅えられている。「石田」という所は醍醐の附近にある村である。「石田杜(いわたのもり)」と稱えられ、歌枕としてた人に知られて居る所であつて、この移住して來た家も其の地名を冐して姓としたもので「イワタ」と呼んでいが、後に「岩田」という文字を使用するようになつたといわれる。
 今から約800年前、長尾附近の地が、「枳豆子莊(きずしのしょう)」といわれた頃(鳥羽天皇永久3年(1115年)11月15日)醍醐の三寶院が山城國宇治郡醍醐にある醍醐寺に落慶供養があつた。その頃長尾の地はこの寺の領所になつた。それは室町時代の初めで、この寺が日野家にゆかりの深いものであつて、日野家は當時將軍であつた足利氏と姻戚関係であつて、この日野家から出てこの寺の院主となり、醍醐寺の座主となる人も世々相繼いで出た。この關係から三寶院主は幕府に出入し、顧問として幕府の政治に關係したので、其の威嚴は大名や武士の崇敬する所となつた。此の寺領である「枳豆子莊」は當時半島の大部分を占め、南は布土、坂井のあたりから北は、樽水、長尾の間にわたつた。三寶院は即ち修驗道として北部は「鳴海莊」中央には阿久比郷、枳豆子莊、南部には但馬郷、この他熱田社人の、田島馬塲二家の領有にかゝる散在田等で、三寶院のなす所は皆用いられている有様で、當時円城寺と共に其の全權を支配していたもので、此の領所の下司として此の地に置かれたものが、石田の家であつた。石田は長尾に住し其の任にあたつた。

豊石神社

 此の三寶院の鎭守神が「長尾天神」であつて、これを長尾に勸請したもので、其の廢佛毀釋の関係から寺との縁はなくなつたが、此の長尾天神は枳豆子莊の遺跡として本町に鎭座し住民の崇敬の的となつた、村名の起因は此の神社の名によつたもので、此の長尾(たけお)が何時しか武雄の文字と書き改められたのである。
 大足村は、大谷からわかれ、それが變化して「オオタリ」となり現在の、大足の名前が生まれたと、口碑によるが、これについては參考資料がないので、はつきりとはしていないが、此の大足村に豊石神社が祀られて村人の崇敬の中心となつていた。往時當社は八劍官と稱せしも文化年間(1804年)に尾州一円に古社復興の儀興りて、社名政稱の事が行われた時、時の社家「小出石見」の手によつて「八劒宮」を以て國内神名帳所載社である從三位豊石天神と改稱し、氏神として豊石神社を崇敬せられたので、此の豊石の社名は舊地トヨイシと申す所より、只今の社地へ引宮に相成つたものと記され、八劒宮から豊石神社に改稱せられたのは天保年間である。何れにしても、天正元年葵酉(1573年)以前の古社たることは明らかで、當時人士の崇敬であつた此の兩社の頭文字をとつて武豊の町名が生まれたのである。
 
※明治20年3月23日→正 明治20年2月23日
※23年2月29日→正 23年3月29日