本町の現在の地形と昔の地形とを考える時、その變遷のはげしいのには驚かざるを得ない。
古代人の遺跡をたどりつゝ、當時の地形を考察するに、貝塚は武雄神社東側より西南方字高野前より社地を含んで、字若宮に至る延長凡そ12町歩の地域に存在しており、古墳は社地の西北方に數基の現存することを見ることが出來る。尚古老の言によると、既に壊滅したものも10數基に及ぶこと明らかなり。此のことから考えるに、貝塚は往時の不用物を捨てた所であつて、上代人が食した貝殻が地中に埋沒したものであるから、社地と若宮を結ぶ陵線が昔の陸地の先端と思われる。即ち現在の小迎、市場のあたりは海又は川となつていたことは想像にかたくない。
古記によれば「天王森下大船掛り場其後新開出來云々」とあり。叉高野前に、「汐來」字向田に「鮫釣」と稱する地名を殘すに徴しても、恐らく疑いはないであろう。其の後年を經るに従つて、順次之を埋立てゝ新田を作り今日の地形を得たと思う。
往古海面であつた所について其の例をあげてみよう。字下起、石川、北曲輪、塩田、淺水、中狭、道崎(海面なりし故を以て海道崎と呼び現在道崎田と改稱、大足にも同名字あり)瀬木、向田、川尻、石田(一部が海面)下田、忠白田、北新田(一部海面)草口、目堀、西田崎、田崎、土穴(一部海面)道仙田、平海道、明神戸、後田、堀割、川脇、前田(一部海面)口田、ヒジリ田、小迎、澤田新田、以上の地名が往時海面にして、それを地圖上に記入してみれば一層明瞭になる。
前項地形の變遷について述べたごとく、上代人の生活を貝塚古墳によつて知ることが出來る。
思うに氣候温暖、海産の魚貝類豊富なる當地は、漁獵を主とした上代人の集團的住所であつたことは明らかである。現存する古墳(本町の北端高台、三本松附近)について其の例を示せば(維新の際發堀を試みたが、内部大石重疊、動かすことが出來ず、其の目的を達しなかつたので再び埋沒して、原形に復した)其の円形墳にして單純なものであり、何等段はなく湟もないのであるが、一帶が耕地と化して大部分が破壊せられているので確實なことはいえないが、其の古墳の上に立つて當時を思うに、高台附近には松が茂り、四圍をきれいな堀の如き池水をめぐらしたことは、其の地形を見て容易に我々の感ずることであつて、全く大池の滿々と水をたゝえた中に、樹木の生い茂つた存在は如何に莊嚴な感じであつたかゞうかがわれる。然も附近麥畑より發堀された土器を見る時、それは垂仁天皇以後であつて、皇后日葉酢媛命崩御の時、野見宿彌が殉死禁止の建議として、「出雲國土部百人を呼び寄せ云々…」の如く、もはや銅劔石器共用時代のものであることがわかる。然も横穴式のものであつて、内地にある有名な古墳より小規模な点をみて、都より離れた當地は、概して高位の墳ではないと思われる。現在俚俗「ボタ」と稱しているが、當時其の評判附近に傅わつて、此の塚に詣でるもの多く商人は露店張見世を出し、非常な賑わいを呈した時代もあつたと傅えられる。
以上各種の事を綜合してみるに、本町の文化は、現在若宮附近の北部より開け、次第に海岸方面に及んだと思われる。