神戸川の變遷

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 尚此處に驚くべき川の流れについて少し述べたいと思う。即ち元祿12年卯4月(1699年)廣目村庄屋「喜右衞門」より社寺奉行所へ差出された御逹書によれば、現在神戸と稱せられている部落は、本町の東北端、成岩町字東馬塲、字西馬塲を中心とする土地に居住していて、此の部落を東西に流れる川を神戸川と云う…と。即ちこれは現在の神戸川であるが、此の川はもと其の源を本町の西南端、原田の山中に發して、大足長尾兩村の間を東北に流れ、現在の「知多武豊驛」のあたりから長尾村の郷中に入り、長尾城及び武雄神社の東を南より北に流れていた。そして此の川が長尾城本城の天然の堀となり、見座の東に出て村の北端で現在の石川の支流を合わせ、叉成岩町との境界より源を發し、板山から流れ出る支流を合わせて衣ケ浦に注いだと、寛文4年「神谷守定の奥記ある記錄」により明らかである。(地圖參照)
 然し尾張藩は新田開發、農業經濟の確立が、國政の根幹であると…藩政に意を注ぎ、寛文7年(1667年)塩瀨開設のため、犬山城主「成瀨隼人正」によつて其の本流を失つたのである。即ち此の本流を、長尾村と大足村の村界に於て海に切り落し、現在の堀川とし、叉石川の支流を直ちに海に切落して、現在の石川とした。叉板山から流れ出る支流を北方に瀨違して、現在の神戸川を作つたのである。
 思えば其の地形の變遷は、如何に大きかつたかをうかがう事が出來る。現在に於ても此の神戸川本流の跡は今日も尚深田となつて現存し、其の川岸であつた部分は葦の根を泥中より發見することが出來る。