長尾城と岩田氏

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武雄神社

 本町上代の歴史に明らかな点は、其の殆んどが氏神である。即ち武雄神社並にそれに附隨した長尾七社の歴史であつて、豊石神社は殘念ながら神官が中絶し古記がないので、詳らかなことは判明しない。武雄神社は、即ち本郡が贄代郷と稱せられて伊勢の神領であつたことが「大神宮淸雜書記垂仁天皇の項」巻頭、或いは郡史によつて明らかであつて、神社の創立は平安朝或はそれ以前とされている。從つて其の當時の神領として贄代郷、又は承久の變(1221年)後鎌倉が本郡を二分して、枳豆子莊としたことも明らかであるが紙數の都合で省略したい、特に上代に於ける本町の状況は、細部にわたつては資料がなく、或る程度漠としたものであつて、やはり本町の歴史的存在は政治が朝廷をはなれて、武家えの政權移行により政治の對照が殿上人より一般庶民に移行してから、一層史實を明らかにしているのであつて、興味もやはり武家時代ではないかと思われる。
 本町の歴史は何といつても長尾城をめぐる岩田氏である。
先に述べたように、「出羽權守朝高」を始祖として、世々山城國醍醐の邊石田より移つた岩田氏が當地に來たのは恐らく、岩田遠江守朝弘の代であろう。生國石田を以て姓となし、其の勢本郡に於て之に對立する豪族としては、當時緒川の郷、水野重房のみにて恐らく當時の岩田氏は、地頭職の代官であった。現在の武雄神社の境内を含み南一帶の高台の地を構内として濠を廻らし、館をかまえ、ここに一族と共に居住した。そして武雄天神を鎭守の神として崇敬し敬慕の禮を致したのである。
 思うに本町は本郡の中心部に當り、衣ケ浦を經て三河國を指呼の間に望み、南北眼界開けており西方の土地は山地をもつて自然の要害をなし、誠に好適地ではなかろうか。
 文永弘安の役が起きた時は、岩田平衞將監弘直一族を率いて九州に赴き、役終りて當地に歸るに際し香椎聖宮を當地に勸請して御供田として現在の「ヒジリ田」を奉つた。
其の後鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の嘉歴2年(1327年)大佛氏の緣家「一色範氏」が本郷大野の庄、大興寺村に移つて勢力を張つたから、知多郡の事情も漸く穩やでなくなり、依つて岩田氏は社地の南方字金下の地に、長尾城を築き防備を固めた。そして御城内の北の御門を、北門として御門の西の川を、門西の川とした。當時の地名が今日の下門、上ゲとして今日まで存しているのであつて、岩田氏と本町の地名と密接な關係は其他多くあるのである。
この頃の制度として(室町時代)地方には領家と地頭と併存したのであつて、世情は亂れ各地に一撥の續發した時であつて、永享12年5月(1440年)一色義範も大和の人世保族と共に兵をあげて幕府に叛いた爲に、將軍義教のために誅せられ義範の子、兵部小輔義遠が大野の庄である大草城に在つたが、文明2年4月(1470年(兄義直の子、五郎義春と叔甥の爭を起して同族相食むの結果、其の勢全く地におちたので佐治駿河守宗貞、主家を追つて獨立し大野庄宮山城に據つたため、備中守を内海庄一色城に置いて、勢力を振つたので、岩田氏は西浦苅屋の地に支城を築いた。又一色城の支城たる細目城に對しては、廣目寺の南方に奥田城を築き之に對して備えた。
 然し文明7年以前、伊勢貞親の代官、戸田彈正左衞門宗光が、碧海郡上野莊より南知多東海岸に來たので、岩田氏も奥田、布土、富貴の諸城を失つたのである。然し室町の時代は打續く應仁の亂後國内は全く麻の如く亂れ、守護大名の大きくなつた地方々々の豪族が各所に勢力を得るようになり、戦國の時代が來たのである。尾張には、織田氏、遠州駿河に今川氏、三河には徳川氏と各所に英雄が現われて、小さな城主はそれ等の大きな力に引き込まれなくてはならないようになつた。
 從つて各城主は自己の領土保全のため一層防備を固め武備をとゝのえた。此の世の動きは、當然本町の岩田氏の上に及ぼし、各所に支城を作り本陣の武備を固くした。特に北方(緒川)の水野藏人貞宗に對しては、成岩城を築き一族をして之を守らした。然し榎木了円のために、成岩城は攻畧せられたので本城の北方馬場の地に柵を設けてこれに備えた。
 即ち現在の大府東浦を中心として水野氏、横須賀大野を中心として佐治氏、南に戸田氏とこゝに知多半島は四豪對立の世相をうみ出した。然し天文12年、織水同盟の結果、緒川の水野信之が知多席巻の兵を起して南侵し、成岩の榎木了円を滅したので岩田氏も和を睦んで水野氏と共に、河和の戸田氏を攻めて大勝した。岩田氏も遂に水野氏の勢力に押されてしまつたのである。斯くして一應今川の勢力下となつたのであるが、桶狭間の一戰に於て、今川氏が敗れたので其の波は當然岩田氏の上に及んで、此處に落城の悲運に再會したのである。
 鎌倉の中期頃より本町に來た岩田氏も遂に此處に於て全く勢力を失つたのである(地圖参照)