江戸時代について

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 岩田氏が勢力を失つてから、時代は織田、豊臣、徳川となり、打續いた戰亂から脱して諸方漸く治まり、各藩は夫ゝ國力充實に意を注いだ。當知多郡も今までの守護地頭の權力は何時しか消え失せて領家、庄屋が其の中心となつてきた。この時代には檢地、耕地整理を行つた時代であるが、文献が散在し、その史實も明瞭ならず。現に殘つているものゝ中興昧深いものは、大嶋四郎兵衞藤原久成氏が明暦万治寛文の頃長尾を領有したといわれている。當時宮本講頭として神輿を奉献し、其の祭礼は近邊無双の大祭であつたが、然し其の爲に住民は大金を費いはたして次第に底をつく有様となつたといわれる。元祿6年(1693年)以降當町は尾張藩の公料となつて、領主を失つたので領主の奉仕がなく次第に盛大さを失い、時に儉約令に遇つて半减の上、隔年奉仕に制限された。其の頃時代は幕末世情騒然となり遂に中絶の止むなきに至つた。
 叉大足の方は德川時代に、志水甲斐との關係が深く、慶長6年(1601年)以前は、志水小八郎氏に収納していたが、其の當時の文書によれば、「元和6年大蘆、485石745」の所領をみ南部の志水家北部の渡邊家これ等を總括して成瀬氏が其の任に當つた。
 天保以降外國船の渡來があつたので、海邊の防備は益ゝ厳重を極め尾張藩も知多郡沿岸防備に意を用いた。特に嘉永4年5月、藩主慶勝は重臣成瀬隼人正、瀧川豊前守、千賀與八郎をして海岸を巡視させた。其の際長尾山に烽台を設け、海上賈船往來の事を監視させ、一朝有事に際しては直ちに烽火を以て知らせる方法を講じ庄屋三井傳左衞門氏を特に濱方年寄役に任じた。
 嘉永3年10月20日には、千賀信立が本郡の海防を巡檢し、天保14年10月には藩主齊荘自らも巡見、同月3日には此の地を通過した。世界の動きは本町にも及ぼし騒擾の中に明治の御代を迎えた。