國鉄武豊驛
國鉄が陸蒸氣の綽名を頂戴して新橋、横濱間を突走つたのは明治5年のことであるが、此の武豊線が開通したのは、それから14年後の明治19年3月1日である。この武豊線永久敷設については先に述べたのでこゝでは省略いたしますが、いま當線の沿革誌や、開業當時の文書によつて開通當時を回顧してみますと、當驛は明治19年3月1日、武豊町字道仙田海岸(現在の武豊港線)が開業し同25年6月現在の位置に移轉した。また武豊港驛は、昭和5年4月1日舊武豊驛跡に設置され貨物營業を開始した。其の當時は武豊線は、緒川、亀崎、半田武豊の舊驛しかなかつた。その頃の珍しい記錄二三摘記しますと、
武豊ステーシヨン中等乘客人員調
日 付 | 七 月 二 十 一 日 | 二 十 二 日 | 二 十 三 日 | 二 十 四 日 | 二 十 五 日 | 二 十 六 日 | 二 十 七 日 | 二 十 八 日 | 二 十 九 日 | 三 十 日 | 三 十 一 日 | 八 月 一 日 | 二 日 | 三 日 | 合 計 |
第一列車 | 2 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 |
第二列車 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 |
合 計 | 3 | 0 | 3 | 7 | 2 | 0 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 22 |
これ等の古文書によると、當時は名古屋方面行列車が1日2回運轉し車中には「吸煙論告書」が貼られ中等乘客の一番多かつたのが7名13日間に乘客のないのが7日間もあつたようである。
一方貨物輸送については何の記録もないが、大正8年の頃になると
品名 | 噸數 | 品名 | 噸數 | |||
わら製品 | 419 | 士器 | 7,264 | |||
木材 | 44 | 士 | 4,587 | |||
石油類 | 9,483 | 米 | 1,202 | |||
塩干魚 | 87 | 大豆 | 1,481 | |||
みそ溜 | 4,418 | 木材 | 538 | |||
酒 | 1,547 | 木炭 | 414 | |||
大豆粕 | 586 | 容器 | 211 | |||
煉瓦 | 11,544 | セメント | 40 | |||
綿糸 | 81 |
以上の貨物によつて本町の産業状態を知ることが出來る
その後60餘年間、輸送状況は逐次上昇し私鉄電車、バス、トラツク等もまた國鉄と共に進展の歩を一にして漸次好調を辿り、戰爭による痛手も極めて少く今日に至つた。現在列車數は旅客列車24本、貨物列車6本、合計30本で特に旅客列車は遠く垂井關ケ原まで直通運轉し、文字通り南知多の玄関である。
昭和24年度の一日平均輸送は、乘客人員763人、降車人員721人、旅客収入17.552円に增加を見、名古屋鉄道管理局管内、140驛中旅客収入は第55位貨物収入は第8位であつて開業當時を思えぼまことに、隔世の感を禁じ得ない。而も濱松、米原間の電化實施と共に、當驛區の電車化も確實性を帶び、旦つまた師崎線延長も、期成同盟會の猛運動によつて有望視されるに至つて、いまや、觀光と産業の南知多は大名古屋の郊外樂園として、一大飛躍の緒についたというべくその將來は當町の發展と共に期待さるべきものがあらう。