戰前の武豊港
武豊港は明治15年早くも現郵船會社の前身たる、三菱會社が東京四日市間の定期航路を寄港させて、大船航路を開いたことから、全國的に著名となり、仝17年、川村海軍鄕の命を受け、水路局長柳海軍少將、港の測量をなして、深淺を明らかにした。ついで、18年現省營臨港鉄道の起点に、木製棧橋を架設したるのを、港内設備のさきがけとして、明治19年現省營武豊線の運輸開通と共に、港勢次第に進展し、同32年7月開港となつた。36年には、延長319米の防波堤を設置、大正11年5月、半田、亀崎、新川、大濱、平坂の5港を含む指定港に選定せられて、港勢年と共に發展した。昭和9年迄の累計輸入税、噸税等の諸収入2100万円余に上り、昭和8年に於ける輸出入貨物噸數量は、203万噸弱にして、全國優秀港、200港中第12位の位置をしめた。
本港陸揚貨物は、主として肥料、飼料、穀類、石炭、油類、木材にして、需要地は遠く長野、岐阜、靜岡に及んだのである。
昭和8年頃には五隻以上の汽船が常に入港し、港は活潑な様相を呈し、大正元年には出入船舶の隻數、39,051隻、噸數100万3571噸に對し、昭和8年には、70,368隻此の噸數219万4663噸、即ち二倍の增加を示し港の趨勢は將來を目されていた。それは矢作川の土砂が川口南岸に堆積するため、衣ケ浦に出入する海水はどうしても、知多半島岸を洗うことゝなり、常に水深は、1万噸級の船の自由出入を可能ならしめ、何等人工を加えずして港の條件を具備しているのである。(水深中央部は12米、前面中央9米にして海岸から少し出た處に斷層的な線を持つ)然しながら、接岸設備がない爲に本船の荷役能率が低率であり、從つて汽船運貸が高くなるのである。本港はあまりにもその天然の良港にたよりすぎ、其の港灣修築を忘れすぎたうらみがあつた爲、何時の間にか自然を克服した他港の進展に比して遲れたことは今日から考えると非常に殘念なことである。即ち港の發展は其の後背地の如何によつて左右されるといわれているが、然し又其の反面港灣修築の完全を期したならば後背地の發展は自ずから期せられるものとも考えられるのである。斯くの如く本町發展に重要な役割を果たす港灣の修築は、町民の献身的努力により逐次增設され、戰後に於ては、多額の國庫補助により其の修築は一歩一歩完成に近ずきつゝある。