日本油脂株式會社武豊工塲 武豊町字西門82
大正3年、歐州戰爭當時は、火藥類の製造は専ら政府の直營に屬していたが、久米三浦兩氏は火藥類の製造は、平時より不斷の研究と製造能力の蓄種とを必要として各積産業上に、貢献しなければならないと思い、當局と屢々交渉を重ねた結果、大正6年規則の改正をみたので、三浦氏は海軍々用火藥の製造許可を、大正7年11月受けるに至つた。同年8月工場建設に着手し、10年10月に操業を開始した。其の間、昭和13年7月、日本油脂株式會社に合併、20年4月、日産化産株式會社の新社名に變更、20年7月、企業再建整法に基き、日産化學の第二會社として發足現在に至る。
昭和20年8月までは主として、海軍用火藥並に爆藥を製造していたが、それ以降は、開墾爆藥、獵用無煙火藥の如き平和産業用のものを作る。戰前に於ては一般えの公開が秘にされて町民との間に一線を劃していた感があつたが、現在は特硝安ダイナマイト、捕鯨砲用藥包を製造し、その製品はその90%までが北海道の炭坑に送られ、總坪(エ場並に社宅を含む)451,650坪を數え、現在本町の最先線をゆく工場として其の躍進は實に驚くべきものがある。