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序説

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 地質学では現在を沖積世(ちゅうせきせい)といい、約一万年続いているとしている。気候や水陸地の分布、動植物の状態が現在とほぼ同じ時期である。日本列島からは約十万年前といわれる石器類が発見されているが、紀元前二、三世紀ごろに始まる弥生(やよい)時代以前の数千年から約一万年の間を縄文(じょうもん)時代と呼んでいるので、沖積世はほぼ縄文時代以後を含んでいるわけである。
 沖積世の前は約百万年続いた洪(こう)積世で、そのころ関東平野は東に向いた入り海であった。房総半島南部から三浦半島を経て、関東山地に至る半島がそれを囲んでいた。この入り海は古東京湾といい、ここに堆積した地層(上部第三紀層)の東の部分を上総層群という(西の部分は三浦層群という)。洪積世になってこの上に成田層群が堆積した。これらの地層群は関東造盆地運動によって沈降するので、成田層群は数百メートルの厚さになった。
 成田層群は貝殻化石を多量に含んでおり、その貝の種類によって浅い海にこの層が堆積したものであることがわかる。多古町染井の台地の急崖に、貝層の露頭を見ることができる。成田層群の上面は平らで、その上に積もった関東ローム層(火山灰層)とともに造っているのが下総台地であるが、この台地の崖に成田層群は露出しているのである。染井の貝層は約十万年前のものといわれている。

染井の成田貝層露頭

 洪積世は何度かの氷河の時代であり、氷期に海面が低くなって海岸が後退していったころ火山活動が激しくなって火山灰が堆積したのである。このとき古東京湾は小さくなり、浦賀水道に当たる部分が沈降して房総半島はいったん島になっている。
 氷河期が終わり、間氷期に入ると、また海面が上昇して海進が始まり、関東平野は再び海に没した。これを武蔵野海湾といっている。海底にあった両総台地に海成層(上部成田層)が堆積した。海湾は河川の土砂で小さくなり、関東造盆地運動で現在の東京湾の輪郭ができ始め、さらに火山灰が降り積もった。両総台地も海面に現われ、武蔵野海湾を東京湾方面と鹿島方面の二つに分け隔てたのである。
 再び氷期に入って海面は下がり始め武蔵野海湾は陸地となり、現在の関東平野よりも広くなった。東京湾も盆地となり、両総台地など周囲の台地から流れ出る川が細長い谷を刻み込んで古東京川を形成し、浦賀水道を河口として太平洋へ注いだ。
 次の間氷期に海面はまた上昇して低地に海水が浸入し二つの入り海ができた。奥東京湾と鬼怒(きぬ)湾(鹿島湾)である。後者は古代の香取海の前身であり、これが陸地化して今の下利根平野となった。この時代が沖積世で、約一万年前に始まって現在に至っている。洪積世と沖積世とは地質学上の第四紀で、人類時代であるとともに氷河時代でもあるが、現在は間氷期で、氷河は両極と高山に後退しているのである。
 関東地方の台地をおおっている関東ローム層は、洪積世に堆積されたと考えられ、その中から先土器時代の石器が出土することが群馬県の岩宿遺跡の発掘以後明らかになった。その出土層は下部ローム層にまで及んでいる。千葉県には先土器時代の遺跡は三〇カ所以上あるが、それらは最上層の立川ローム層の時代のものである。最も古いものとしては、成田空港建設に伴う発掘調査で、約三万年前の局部磨製斧(おの)形石器が発見されている。これが房総半島に残された最も早い時期の人間生活の痕跡である。
 奥東京湾が最も広がったのは今から八千年から五千年前のころで、すでに縄文時代に入っていた。海進が始まって海面は現在の海より約三メートル高く、九十九里平野も海底にあった。台地に刻み込まれた谷はリアス式の海岸になっていた。このころ奥東京湾や鬼怒湾の沿岸に暮らした人々が多くの貝塚を残している。
 縄文時代の中期から気候は下がり始め、再び海岸線は後退し始めた。谷から海水が引き、それにつれて低湿地が移動していった。貝塚文化は衰え、関東に呪(じゅ)術的な土偶(どぐう)(土の偶像)が出現している。そして縄文時代後期になると、主として獣類を食料とするようになっている。
 やがて紀元前二、三世紀ころから弥生時代に入り、大陸から稲作が渡来した。東国へ稲作が伝わるのは一世紀ほど遅れるらしいが、両総台地の関東ロームを刻む樹枝状の浸食谷は谷津田として水田に利用されるようになった。